1317年
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文保元年 鎌倉時代 |
宮古の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)。 このことは、中国元の時代の歴史書に「蜜牙古(みやこ)」と記録され、宮古の地名がはじめて歴史書にあらわれました。
このころ、宮古には多くの豪族(ごうぞく)がおり、それぞれ争そっていました。 |
1365年 |
正平20年 室町時代 |
目黒盛 「*注2」(めぐらむり)が与那覇原軍の主長、佐多大人(さたうぶんど)を滅ぼし、宮古全島を統一しました。 目黒盛は島民から豊見親(とぅゆみゃ)とよばれ、これより豊見親の時代となりました。
(*注2:「宮古島旧記」では目黒盛の「黒」の字に「墨」の字が当てられています。) |
1390年 |
元中7年 室町時代 |
与那覇勢頭豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)が、琉球を統治(とうち)していた中山の察度(さっと)王に拝謁(はいえつ)し、宮古の主長になりました。 |
1474年 |
文明6年 室町時代 |
仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)が琉球の中山(王様)にみつぎものを持って拝謁(はいえつ)し、宮古の主長になりました。 |
1500年 |
明応9年 室町時代 |
仲宗根豊見親が漲水御獄(はりみずうたき)の石垣をきずきました。
仲宗根豊見親が八重山をおさめていたオヤケアカハチとの戦いで勝ち、琉球の尚真王から宮古と八重山の頭(かしら)に任命されました。 |
1522年 |
大永2年 室町時代 |
仲宗根豊見親、与那国の鬼虎(おにとら/うにとら)をせいばつしました。 |
1525年 |
大永5年 室町時代 |
蔵元(琉球王の行政事務所)ができました。 |
1535年 |
天文4年 室町時代 |
宮古は平良の頭(かしら)である仲宗根玄屯と、下地の頭の真普武殿のふたりによる二頭制となりました。 |
1583年 |
天正11 安土桃山時代 |
洲鎌の栄河氏真栄が下地の頭となったとき、妻の稲石(いないし)が宮古上布のもととなる織物、綾錆布(あやさびふ)を織り、 尚永王に献上(けんじょう)しました。 これが宮古上布の始まりです。
(宮古上布については、こちらで読むことができます。 ) |
1597年 |
慶長2年 江戸時代 |
甘藷(さつまいも)が宮古に伝えられました。 (砂川氏旨屋、長真氏昌屋、河充氏真逸らが中国から持ち帰ったといわれています。)
(宮古島のさつまいもの話は、こちらで読むことができます。 ) |
1609年 |
慶長14年 江戸時代 |
島津藩(薩摩(さつま)、今の鹿児島県)による琉球攻めがはじまりました。 島津藩は樺山久高を琉球征伐(せいばつ)のために派兵し、薩摩軍による支配がはじまります。 |
1611年 |
慶長16年 江戸時代 |
砂川の頭に砂川間切をおき、宮古は三頭制となりました。 |
1619年 |
元和5年 江戸時代 |
各村に村番所ができました。
村の女性が一定期間機織り(はたおり)をさせられたことから,村番所を宮古の言葉で上布(ブン)を織る家、ブンミャーと呼びました。 |
1629年 |
寛永6年 江戸時代 |
琉球王の命令で、宮古にも役人が交代で勤務する「在番(ざいばん)」制度がはじまりました。 |
1636年 |
寛永13年 江戸時代 |
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宮古島や八重山などの先島で、戸口調査(すべての家をたずねて、年齢や人数などの家族構成を調べること)が行われました。
これは、次の年にはじまる人頭税(じんとうぜい)の準備のための戸籍(こせき)調査といわれています。 |
1637年 |
寛永14年 江戸時代 |
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人頭税制度がはじまりました。
15歳から50歳までの島民は、全員税金を払わなければなりませんでした。
男の人は農作物、女の人は織物(おりもの)をおさめるために島の人々はとても苦労しました。
また荷川取(にかどり)にある人頭税石(約143cm) が、税金を払い始める身長の計測(けいそく)につかわれた、との説もあります。
(人頭税は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
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1655年 |
明暦元年 江戸時代 |
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宮古島における植林(しょくりん)の始まり。
下地親雲上(しもじぺーちん)の役職だった白川氏恵根(しらかわうじ・けいこん)は、沖縄本島に出張した帰りに小さな琉球松を数本宮古島に持ち帰り、大武山(いまの野原山)と島尻地区に初めて植えました。
(宮古島の森を作る話は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1659年 |
万治2年 江戸時代 |
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宮古上布が年貢(ねんぐ)の一部となり、島の女性たちがとても苦労するようになりました。
(宮古上布物語も合わせてお読みください。 ) |
1667年 |
寛文7年 江戸時代 |
宮古島で大地震があり、島の一部では地盤(じばん)が90cm沈下しました。 |
1678年 |
延宝6年 江戸時代 |
過酷(かこく)な人頭税にたいして、多良間の農民たちが抗議(こうぎ)をしました。 |
1686年 |
定享3年 江戸時代 |
川満村と佐和田村が、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。 |
1714年 |
正徳4年 江戸時代 |
嘉手苅村と大浦村が、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。 |
1715年 |
正徳5年 江戸時代 |
大野山、野田山造林が行われました。 |
1716年 |
享保1年 江戸時代 |
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保良村と野原村で、人頭税に抗議する農民の集会を行いました。 |
1740年 |
天文5年 江戸時代 |
死亡率が40%ともいわれる、疱瘡(ほうそう・天然痘)の流行がはじまり、治まったのは6年後の1746年でした。 1741年には、本島より3名の医師が派遣されました。
また、宮古島各地では病人用の食料が不足したために、各村では貯蔵倉の穀物を配給しました。 |
1744年 |
延亨1年 江戸時代 |
詰医者(つめいしゃ)制という制度がはじまり、久場里之子親雲上が琉球王府から派遣(はけん)されました。 3年間滞在し,その後は2年交代制になりました。 |
1753年 |
宝暦3年 江戸時代 |
麻疹(はしか)が流行しました。 |
1767年 |
明和4年 江戸時代 |
疱瘡(ほうそう)が流行しました。 |
1767年 |
明和4年 江戸時代 |
疱瘡(ほうそう・天然痘)の予防法として、当時すでに始められていた感染者の痘をワクチンとして植え付ける人痘法が宮古島の一部の人に実施されました。 |
1771年 |
明和8年 江戸時代 |
明和の大津波。 震源地を八重山列島近海とする、大地震(マグネチュード7.4程度)による大津波が宮古島をおそいました。 津波の高さは36mから39mだったと伝えられています。
この津波で友利、砂川、新里、宮国の4つの村で人家が流され 2,548人が死亡しました。 また船が76隻破壊され、牛や馬も641頭死にました。 |
1776年 |
安永5年 江戸時代 |
7月24日から25日の2日間、強い風をともなう台風が襲いました。 その後、宮古島は食糧不足になり島民の多くが飢えに苦しみました。 |
1778年 |
安永7年 江戸時代 |
疱瘡(ほうそう)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1791年 |
寛政3年 江戸時代 |
疱瘡(ほうそう)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1797年 |
寛政9年 江戸時代 |
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5月17日、池間島の八重干瀬(ヤビジ)で、イギリスの探検船プロビデンス号が座礁(ざしょう)しました。
船長のロバート ブロントンをはじめ75名の船員はみな無事でしたが、舟は沈没して使えなくなりました。 幸いなことに伴走船がいたので、全員その船に乗り移り、物資補給(ほきゅう)のために宮古島を訪れました。
宮古島の人たちは船が出発するまでの6日間、水をはじめ食料や薪(まき)などを差し入れました。 |
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1810年 |
文化7年 |
麻疹(はしか)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1816年 |
文化13年 |
宮古島全域が大飢饉となりました。 島では穀物貯蔵庫より米や他の穀物を配給しました。 |
1824年 |
文政7年 |
1824年から1825年にかけ、琉球本島を含む広い地域が飢饉(ききん)となりました。 そのため、宮古島からも船6隻分の穀物(おもに粟)を本島に届けました。 |
1826年 |
文政9年 |
疱瘡(ほうそう)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1835年 |
天保6年 |
麻疹(はしか)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1836年 |
天保7年 |
6月7日と8日に台風が宮古島に接近し、家屋と樹木を倒壊させ、農作物に大きな被害がでました。
そため、食糧が不足し多くの人が飢えに苦しみました。 |
1840年 |
天保11年 |
多良間島で疱瘡(ほうそう)が流行しました。 |
1842年 |
天保13年 |
3月5日より3月14日までの10日間に、地震が67回発生しました。 |
1843年 |
天保14年 |
7月6日と7日、強風と大雨をともなう台風が通過し、家屋の多くが壊されました。 |
1844年 |
弘化1年 |
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1月20日、イギリス海軍の調査船 サマラン号が宮古島に到着し、乗組員が上陸して14日間にわたり、宮古島各地の調査を行いました。
この時のようすは、ベルチャー艦長の 「サマラン号物語」 で知る事が出来ます。
(サマラン号物語は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1851年 |
嘉永4年 江戸時代 |
疱瘡(ほうそう)が流行しました。 治療のため本島より医師が派遣されました。 |
1852年 |
嘉永5年 江戸時代 |
台風の後に干ばつが発生し、多くの島民が犠牲になりました。 「子年(ねどし)の大干ばつ」 といわれる大規模干ばつです。 干ばつによる食糧不足と、次の年に発生するコレラにより約 3,000人が死亡しました。 宮古島では、島内の穀物倉庫から食糧を配給しました。
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1650年から 1850年にかけて宮古島でも多くの飢饉が発生したのは、この時代が 「ミニ氷河期」と言われる時期であったことと関連しています。
この時、地球はほぼ全域で気温が下がり、寒冷化と乾燥化の影響で畑作物の収穫量が大きく減少しました。
そのため、多くの人命が飢えで失われるとともに、各国の生産性も落ち経済も大きく落ち込みました。
拡大イメージは右の図をクリックして下さい。
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Photo Courtesy: Global Warming Art
"Image created by Robert A. Rohde / Global Warming Art" |
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1853年 |
嘉永6年 江戸時代 |
コレラが発生し、飢餓で体力のない島民の多くが犠牲になりました。 治療のため本島より3名の医師が派遣されました。 |
1855年 |
安政2年 江戸時代 |
役人のきびしい税の取立てに抗議するため、多良間島の農民が直接首里の王府に訴えました。 |
1860年 |
萬延3年 江戸時代 |
沖縄各地で流行していた天然痘から島民を守るために、新しく開発された牛で培養されたワクチンの予防接種が宮古島でも実施されました。 |
1865年 |
元治1年 江戸時代 |
麻疹(はしか)が流行しました。 |
1866年 |
元治2年 江戸時代 |
9月25日に大地震発生し、 人家や石垣が崩れました。 島内各地の水汲み場や井戸も壊れ、島民の生活を取りもどすには長い時間がかかりました。 |
1871年 |
明治4年 明治時代 |
宮古島の年貢(ねんぐ)船が、台湾に漂着(ひょうちゃく)しました。 そのとき現地の人に54人が殺害され、大変大きな事件となりました。 また3人がおぼれて死亡し、12人が無事に島にもどりました。 |
1873年 |
明治6年 明治時代 |
7月9日、ドイツ商船ロベルトソン号が台風のため上野の宮国沖で座礁(ざしょう)し、宮古の人々は乗組員8人を救助 しました。
(ドイツ商船については、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1876年 |
明治9年 明治時代 |
ドイツ皇帝ヴィルヘルム 1世が軍艦を宮古島に派遣(はけん)し、博愛記念碑として知られるドイツ国民救済感謝碑を建てました。
(ドイツ皇帝 博愛記念碑については、こちらもお読みください。 ) |
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1879年 |
明治12年 明治時代 |
明治政府は沖縄に廃藩置県(はいはんちけん)を公告し、沖縄県となりました。 |
1880年 |
明治13年 明治時代 |
宮古島役所が開設されました。 |
1882年 |
明治15年 明治時代 |
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平良小学校が創立されました。 |
1887年 |
明治20年 明治時代 |
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最初の宮古郡連合運動会が開かれました。
(琉球大学 戦前の沖縄県における運動会の歴史より) |
1893年 |
明治26年 明治時代 |
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人頭税廃止のために、宮古島の農民代表、平良真牛(モーシ)と西里蒲(カマ)、新潟出身の中村十作と那覇出身の城間正安が上京しました。
4人は新聞社に行き宮古島の実情を訴え、国会に「沖縄県宮古島島費軽減及島政改革請願書」を提出しました。
(人頭税は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1902年 |
明治35年 明治時代 |
宮古郡織物組合が設立されました。 |
1903年 |
明治36年 明治時代 |
人頭税が廃止されました。
地割制を廃して、土地の私有制となりました。
農民は負債(ふさい)整理のため土地を売り始めました。
先島に地租条例(ちそじょうれい)、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう)が適用され、本土と同じ条件で税金を支払うようになりました。
先島でも徴兵制度(ちょうへいせいど)がはじまりました。
(人頭税は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1905年 |
明治38年 明治時代 |
久松五勇士が、「バルチック艦隊見ゆ」を通報しました。
日露戦争のとき、日本軍はロシアのバルチック艦隊の動きを警戒していました。 1905年5月25日、バルチック艦隊が宮古島の東側を北上しているという情報が宮古島の行政官に入りました。
本土の軍隊と連合艦隊に報告することになりましたが、電信局は石垣島にしかなかったので松原と久貝に住む漁師 5人が、石垣島まで約100Kmをサバニで15時間かけて石垣島にわたり、さらに陸上を5時間かけて電信局に着き電信を送ることができました。
しかし、電報は多くの中継点を経由したために、連合艦隊に届けられたのは、信濃丸という船が発信した 「敵艦見ゆ」の報告より1時間後だったとの理由で、残念ながら評価されませんでした。
ところが、昭和時代になってこの話が中学の国語の教科書にあたる中等国文教科書に 「遅かりし一時間」 として紹介されたことで、漁師たちの勇気ある行動が沖縄県知事等から表彰され、五勇士として全国で有名になりました。
(久松五勇士は、こちらで詳しく読むことができます。 )
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1908年 |
明治41年 明治時代 |
宮古・八重山両郡民の選挙権獲得(せんきょけんかくとく)運動がおきました。
宮古は平良村、城辺村、下地村、伊良部村の4ヶ村となりました。 |
1913年 |
大正2年 大正時代 |
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海底電信が開通しました。 |
1914年 |
大正3年 大正時代 |
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宮古機業研究所が設立されました。 機業とは当時盛んだった織物業のことで、平良尋常小学校の補習科として併設された教育プログラムです。
普通学科と共に織物に関する知識を学び、実習は各家庭において行いました。 指導員が各家庭を巡回して子供たちの織物技術を向上させ、宮古上布の生産性を高めることに大きく貢献しました。
下の写真は、1933年(昭和8年)の機業研究所の生徒と教員ならびに指導員です。(宮古上布については、こちらで詳しく読むことができます。 )
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1915年 |
大正4年 大正時代 |
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宮古で初の新聞ができました。
宮古電灯株式会社が設立され一部に電灯がつきました。
写真は1918年の漲水港。 当時の宮古島の人口は約53,000人です。
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1919年 |
大正8年 大正時代 |
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1887年(明治20年)に発見されたアカハラショウビンに似た鳥が、1919年(大正8年)に新種の鳥と認められ、ミヤコショウビンとして学会に発表されました。
これにより、宮古島の名前のついた鳥 Halcyon miyakoensis が、世界に紹介されました。
(ミヤコショウビンの謎は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1919年 |
大正8年 大正時代 |
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コレラが発生しました。 患者数は約2,000人で900人以上が死亡しました。 |
1920年 |
大正9年 大正時代 |
宮古島がはじめて本土並自治体となりました。
第一回国勢調査が行われ、宮古島の総人口は 53,097人でした。
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総世帯 |
男性 |
女性 |
総人口 |
宮古島全域 |
10,373 |
26,251 |
26,846 |
53,097 |
平良村 |
4,327 |
10,222 |
11,054 |
21,276 |
下地村 |
1,627 |
4,562 |
4,298 |
8,860 |
城辺村 |
2,319 |
6,189 |
6,076 |
12,265 |
伊良部村 |
1,408 |
3,541 |
3,458 |
6,999 |
多良間村 |
692 |
1,737 |
1,960 |
3,697 |
(1923年発行の日本国勢調査記念出版協会の日本国勢調査記録より)
写真は1920〜1930年代の平良の中心地: 平良町誌 昭和9年 (1934年) 発行
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1920年 |
大正9年 大正時代 |
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台南製糖宮古工場(現沖縄製糖)ができました。 |
1922年 |
大正11年 大正時代 |
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ロシア人の言語学者で民俗学の研究者、ニコライ・A・ネフスキーが宮古島の方言と、宮古島の民俗学的研究のために宮古島を訪れました。
ネフスキーはこの後、1926年と1928年にも宮古島での調査を行い、宮古島の大切な言葉と島民の文化資産を後世に伝えてくれました。
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(ネフスキー物語は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
1924年 |
大正13年 大正時代 |
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平良村が平良町になりました。 |
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1928年 |
昭和3年 昭和時代 |
県立第二中学校宮古分校が設立されました。 |
1929年 |
昭和4年 |
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県立第二中学校宮古分校が独立し、宮古中学校(現在の宮古高校)となりました。 写真は、当時の新築間もない宮古中学校です。
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1931年 |
昭和6年 |
8月9日、風速60mの台風により、学校11校、住宅 3,717戸が壊れました。
下の図は1931年8月9日午後6時の気象図です。 台風の大きさがよく分かります。
写真をクリックすると、当時の中央気象台が作成したこの日の拡大全国気象図を見ることができます。 |
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1933年 |
昭和8年 |
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下の写真は台風の2年後、復興した平良町の写真
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1935年 |
昭和10年 |
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宮古馬が日本全国で評判になりました。 「宮古島には性格がとても優(やさ)しくて、人に良くなつく馬がいる」との評判を聞いた宮内庁は、当時の皇太子さま(今の上皇陛下、平成時代の天皇)の乗馬のために、宮古馬を選びました。 |
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そこで宮古島では、昭和8年生まれの白馬、右流間(うるま)、同じく昭和8年生まれの球盛(たまもり)と、昭和7年生まれの漲水(はりみず)の3頭を平良港から東京の宮内庁に送りました。
写真は右流間(うるま)です。
(宮古馬物語は、こちらで詳しく読むことができます。 )
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1936年 |
昭和11年 |
宮古郡町村組合立宮古高等女学校設立(昭和15年県立に) |
1937年 |
昭和12年 |
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宮古島測候所(そっこうじょ)ができました。 |
1938年 |
昭和13年 |
6月10日 宮古島北北西沖で地震。 平良港に1.5mの津波がおしよせました。 |
1940年 |
昭和15年 |
伊良部丸が遭難(そうなん)し、この事故で70人が死亡しました。 |
1944年 |
昭和19年 |
先島集団といわれる宮古島守備部隊が、次々と宮古島に来ました。(陸軍28,000人、海軍2,000、総兵力30,000人)。
非戦闘員(ひせんとういん)だった島の人々を台湾、九州へ約10,000人移住させる強制疎開(そかい)も行われました。 |
1945年 |
昭和20年 |
イギリスの艦隊が先島に対し艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を行いました。
平良町内は空襲(くうしゅう)され、町内の大半が焼失しました。
米国海軍の進駐(しんちゅう)開始と同時に軍政がしかれました。 |
1946年 |
昭和21年 |
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宮古郡会が開かれました。
第一回通貨交換がおこなわれ、旧円からB軍票とかわりました。 |
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宮古中学校に農業科と海洋科ができました。 |
1947年 |
昭和22年 |
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平良町が新しくできた市制という制度により、平良市となりました。 |
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7月1日、城辺村が城辺町になりました。 |
1948年 |
昭和23年 |
|
市町村長、議会議員の一般有権者による選挙が行われました。
婦人参政権がはじまり、平良市では初の婦人議員2人が誕生しました。
旧B軍票から新B軍票に交換する第2回通貨交換がおこなわれました。
上野村が下地村から分かれました。 |
1948年 |
昭和23年 |
6・3・3制の新学校制度がはじまりました。
農林高校と水産高校が独立して、それぞれが新しい高校となりました。 |
1949年 |
昭和24年 |
下地村が下地町になりました。 |
1950年 |
昭和25年 |
6月23日、瞬間最大風速70mの台風エルシーが宮古島をおそい、多くの被害がでました。
死者25人、行方不明10人、負傷者39人、住宅1,315戸が破壊されました。 |
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それまでの宮古民政府が宮古群島政府に変わりました。
この政府は、戦後の琉球政府が発足するまでの約1年半(1950年11月〜1952年4月)存在しました。
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1950年 |
昭和25年 |
沖縄本島では琉球大学が開校しました。 |
1952年 |
昭和27年 |
宮古女子高校が宮古高校と合併(がっぺい)しました。 |
1955年 |
昭和30年 |
那覇と宮古島を結ぶ民間航空路がはじめて開設されました。(CAT航空) |
1956年 |
昭和31年 |
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宮古空港が開港しました。 |
1957年 |
昭和32年 |
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宮古区裁判所が設置されました。
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1957年 |
昭和32年 |
宮古・那覇間 と 宮古・八重山間の無線電話が開通しました。 |
1958年 |
昭和33年 |
3月11日、石垣島北西部で発生したマグネチュード7.2の地震により、宮古島でも死者1名ほか多くの被害が出ました。
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1959年
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昭和34年 |
9月15日、台風サラが宮古島をおそいました。 最大風速 53m、最大瞬間風速は64.8mでした。 島の7割の家屋が損壊しました。 |
1960年 |
昭和35年 |
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宮古製糖による操業(そうぎょう)が開始されました。 |
1963年
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昭和38年 |
70年来の大干ばつになりました。
1月15日〜5月31日までの137日間雨が降りませんでした。 この年のさとうきびの収穫高はいつもの年の50%以下で、10アールあたり2.2トンでした。 |
1966年 |
昭和41年 |
宮古島の全ての島が電化され、電気製品が使えるようになりました。
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1966年 |
昭和41年 |
9月4日から6日にかけ大型台風コラ (第二宮古島台風・台風18号) が宮古島をおそい、大きな被害が出ました。 最も接近した9月5日午前9時頃の最大風速は60.8m、最大瞬間風速85.3mで、日本の観測史上最大の風速でした。 この台風による強い雨と風により、宮古島の50%の家屋が倒され、サトウキビの70%が収穫できなくなりました。 下は気象庁のデータベースによる、9月5日の天気図と、台風18号のコースです。
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1967年 |
昭和42年 |
テレビ放送がはじまりました。 |
1968年 |
昭和43年 |
宮古産業技術学校(後の宮古工業高校)が開校しました。 |
1968年 |
昭和43年 |
9月22〜23日、第三宮古島台風(台風デラ)が宮古島をおそい、大きな被害が出ました。
最大風速54.3m、最大瞬間風速79.8m。
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1970年 |
昭和45年 |
戦後初の衆・参議院選挙がおこなわれました。 |
1971年 |
昭和46年 |
異常干ばつで、3月15日から9月16日まで186日間雨が降りませんでした。 |
1972年 |
昭和47年 |
5月15日、沖縄が本土復帰しました。 |
第四回通貨交換(ドルから円へ)1ドル=365円 |
復帰後初の知事、県議選挙、衆議院選挙が行われました。 |
NHKラジオの第一放送と第二放送が、沖縄本島と同時に始まりました。 |
1973年 |
昭和48年 |
池間島への海底送水管による給水工事完成 |
1974年 |
昭和49年 |
多良間空港開港
来間島への海底給水工事完成. |
1975年 |
昭和50年 |
沖縄・宮古間海底ケーブルがしかれました。
(電話900回線、カラーテレビ2回線)
この年、沖縄本島本部町では海洋博覧会が開かれました。 |
1976年 |
昭和51年 |
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宮古病院新館ができました。
NHKのカラーテレビ同時放映がはじまりました。
宮古島の電話がダイヤル式になりました。
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1977年 |
昭和52年 |
県立宮古養護学校(現在の 「沖縄県立宮古特別支援学校」)が開校しました。 |
1977年 |
昭和52年 |
宮古島の地下ダムの開発がはじまりました。 |
1978年 |
昭和53年 |
第一回宮古の産業まつりが開催されました。(11月11日)
宮古島空港の滑走路が 1,500m になりました。(12月1日)
B737ジェット機が就航(しゅうこう)しました。
沖縄県の交通ルールが本土と同じになりました。 |
1979年 |
昭和54年 |
下地島空港が開港しました。(7月5日) |
1980年 |
昭和55年 |
県立宮古少年自然の家が完成しました。(7月11日) |
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大神島に海底送電がはじまりました。(4月11日)
大神島に上水道の送水がはじまりました。 (7月17日) |
1982年
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昭和57年 |
伊良部村が伊良部町になりました。(4月1日)
大神漁港の開港式がおこなわれました。(8月19日)
第6回県民育樹祭が宮古島の大野山林でおこなわれました。(10月22日) |
1983年 |
昭和58年 |
フェリーたらまが就航しました。(2月5日)
池間漁港が開港しました。(2月8日)
宮古空港滑走路が 2,000m になりました。(7月1日) |
1985年 |
昭和60年 |
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第1回全日本トライアスロン宮古島大会が開催されました。(4月27日) |
1986年 |
昭和61年 |
県立伊良部高等学校が開校しました。 |
1987年 |
昭和62年 |
平良市立南小学校が開校しました。 |
1988年 |
昭和63年 |
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宮古島地方を集中豪雨がおそいました。(4月28日)
多良間島では、14〜17時の3時間に日本観測史上最高の383mmを記録しました。 |
1989年 |
昭和64年 平成1年 |
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昭和時代が終わり、元号が平成となりました。(1月8日) |
宮古空港から、東京の羽田空港への直行便が就航しました。(7月) |
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平良市総合博物館が開館しました。(11月1日) |
1990年 |
平成2年 |
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平良市立東小学校が開校しました。
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1991年 |
平成3年 |
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宮古馬が沖縄県の天然記念物に指定されました。 |
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(宮古馬については、こちらで読むことができます。 ) |
1992年 |
平成4年 |
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池間大橋が完成しました。
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1993年 |
平成5年
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プロ野球の宮古島キャンプが初めて行われました。(オリックス・ブルーウェーブ) |
1993年 |
平成5年 |
石造建築 仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の墓、知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓などが豊見親(とぅゆみゃ)の墓として国の重要文化財に指定されました |
宮古島のパーントゥが国の重要無形民族文化財に指定されました。 |
琉球放送と沖縄テレビが、宮古島でテレビ放送を開始しました。(12月16日) |
1995年 |
平成7年 |
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宮古島と来間島を結ぶ、来間大橋が完成しました。
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1996年 |
平成8年 |
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上野村にドイツ文化を紹介するテーマパーク、 「うえのドイツ文化村」 が完成しました。
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宮古島で携帯電話が使えるようになりました。 |
2000年 |
平成12年 |
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7月21日、沖縄サミットのために沖縄を訪問したドイツのゲアハルト・シュレーダー首相が宮古島を訪問しました。
これは、127年前にドイツ商船の乗組員を宮古島の人々が助けたことなど、宮古島とドイツとの特別なつながりがあるためです。 |
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14年間工事が続けられた地下ダムが完成しました。
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2001年 |
平成13年 |
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48年間営業を続けていた、宮古島でただ一つの映画館 国映館が閉館しました。 |
2002年 |
平成14年 |
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平良市となって55周年の記念行事のひとつとして、平良港近くのネフスキーが歩いたと言われている坂道を 「ネフスキー通り」 と命名し、坂の上に 「宮古研究の先駆者 ニコライ・A・ネフスキー之碑」 を建てました。
3月7日に行われた顕彰碑除幕式には、ネフスキーの娘、エレーナさんも孫娘のヤーナさんと共にロシアから参加しました。
(ネフスキー物語は、こちらで詳しく読むことができます。 ) |
Photo Courtesy:
Министерство иностранных дел, Китайская Республика (Тайвань) |
2003年 |
平成15年 |
9月10日、大型台風14号が宮古島をおそいました。
最大瞬間風速 74.1m、中心気圧912ヘクトパスカルという超低気圧を記録。 最大瞬間風速は歴代4位の記録でした。 |
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気象庁 過去の気象データより |
Photo courtesy: NASA The Earth Observatory |
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2004年 |
平成16年 |
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1月24日 天皇 皇后 両陛下が宮古島をはじめて訪問しました。 |
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宮古農林高校の環境班による地下水の安全を守るための研究が、スウェーデンのストックホルムで開催された「第8回ストックホルム青少年水大賞」国際コンテストでグランプリを受賞しました。
授賞式について伝える主催者、ストックホルム国際水研究所の公式サイト
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2005年 |
平成17年 |
平成の大合併が実施され、平良市、城辺町、上野村、下地町、伊良部町の5市町村が合併し、あらたに宮古島市が誕生しました。(10月1日) |
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3年半ぶりに宮古島に映画館が復活しました。 |
2006年 |
平成18年 |
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サトウキビの糖蜜を原料としたバイオエタノール(植物性燃料)製造施設ができ、生産を開始しました。 |
2008年 |
平成20年 |
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県立宮古農林高校と翔南高校が閉校しました。
2つの高校は統合され、新しく県立宮古総合実業高等学校となりました。 |
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大神小中学校が休校となりました。 |
2011年 |
平成23年 |
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3月31日、大神小中学校が廃校となりました。 |
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4月1日、池間小学校と池間中学校が統合し、池間小中併置校となりました。 |
2015年 |
平成27年 |
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宮古島と伊良部島を結ぶ全長3540メートルの伊良部大橋が1月31日開通しました。 |
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