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宮古馬って、どんな特徴(とくちょう)がありますか? |
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宮古馬は体高(足から肩までの高さ)が110cm〜120cmで、一般の馬と比べて小さく、ポニーに分類されています。
* ポニー:体高が147cm以下の馬のことをいいます。 |
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2. |
性格はおとなしく、飼い主に良くなつく |
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3. |
力がある / 体力がある / 重労働に耐える |
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4. |
蹄(ひづめ)が大きく、安定感がある |
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病気に強い |
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粗食(そしょく)でも生きのびることができる |
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宮古馬は、どこからきたの? |
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中国から伝わった説や、宮古島で難破(なんぱ)した船から泳ぎ着いたとの説、朝鮮半島の小型馬が九州を経て伝わった説などがあります。 |
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琉球の王様が宮古馬に乗っていたって、本当ですか? |
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宮古馬は琉球王朝時代、王様の公用馬として活躍しました。 蹄(ひづめ)が大きいので、砂利道やデコボコの道を歩いても安定してゆれません。 性格も従順でおとなしく扱いやすいので、大事な王様の乗る馬として用いられました。
右の写真は、有名な沖縄の “琉球はりこ” 作家、豊永盛人(とよなが・もりと)さんの、「馬に乗る王様」です。
宮古馬がこのようにきれいに飾られ、王様を乗せていたのかもしれません。 |
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宮古馬は、なぜ日本全国で有名なのですか? |
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宮古馬が日本全国に知られるようになったのは、昭和10年(1935年)でした。
この年「宮古島には性格がとても優(やさ)しくて、人に良くなつく馬がいる」との評判を聞いた宮内庁は、当時の皇太子さま(今の上皇陛下、平成時代の天皇)の乗馬のために、宮古馬を選びました。
1933年生まれの皇太子さまはこの時まだ1歳8ヶ月ぐらいでしたので、乗馬が出来る年齢までには相当時間がありますが、宮内庁としてはじっくりと時間をかけて調教していく予定だったのかもしれません。
そこで宮古島では、昭和8年生まれの白馬、右流間(うるま)、同じく昭和8年生まれの球盛(たまもり)と、昭和7年生まれの漲水(はりみず)の3頭を送ることにしました。
選ばれた宮古馬の所有者は3頭ともちがいましたが、それぞれの家族は出発の日まで、自分たちの事よりも馬のことを大切に育てたということです。
昭和10年の夏、漲水港(今の平良港)より東京へ送られる日には、宮古島各地からおおぜいの島民が港にきて、3頭の宮古馬を見送りました。
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右上の写真が右流間。 下の写真、左は漲水 、右が 球盛です。
3枚とも、宮古市町村会発行の 「宮古島 畜産史 1984年版」 よりの抜粋。 |
その後宮内庁は、学習院の制服姿で白馬、右流間(うるま)に乗る17歳のころの皇太子さまの写真を育てた島尻寛栄さんに贈ったそうです。 |
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その後のおはなし: |
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それから40年後の昭和50年(1975年)、沖縄では国際海洋博覧会が7月20日より開催されました。 この海洋博覧会の開会式にご出席された皇太子殿下ご夫妻は、右流間(うるま)を育てた島尻さん親子とお会いになり、大切に育ててくれたことを労(ねぎら)われたということです。
皇太子さまも、学生のころ乗った右流間(うるま)のことを忘れられなかったのですね。 |
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宮古馬は、天然記念物なのですか? |
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1991年(平成3年)に、沖縄県の天然記念物に指定されました。
貴重な宮古馬の数を増やし保存させるために、宮古馬保存会のメンバーの人たちが努力しています。 |
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宮古馬は、どのような目的で飼(か)われていたのですか? |
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丈夫で力のある宮古馬は農業用の家畜として、江戸幕府や中国への献上品(けんじょうひん)として飼育されるようになりました。
明治時代には、宮古島でもサトウキビなどの農業や荷馬車として利用されていました。 大正から昭和初期には約1万頭の宮古馬が飼育されていましたが、戦後、農業が機械化され徐々に数が減りました。 |
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宮古馬は、何頭くらいいますか? |
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宮古馬保存会が発表した2019年の宮古馬の飼育数は約40頭です。 |
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宮古島の人たちは、宮古馬をなんと呼んでいますか? |
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宮古島の言葉で、 「スマヌーマ」 とか 「ミャークヌーマ」 と言います。 |
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