宮古島ドイツ村
 

ご家族の皆さま:

台風で遭難したドイツの商船 R.J. ロベルトソン号からドイツ人6人と中国人2人を無事救出した、宮古島の人々。
救出後34日間にわたり、負傷者に最善を尽くした治療を施した宮古島の人々。
全員のために食事を作り体力を回復させた宮古島の人々。
救出の次の日も船長の要請をうけて、荒れる海で倒壊寸前の難破船から物資を運んでいた宮古島の人々。

ヘルンツハイム船長や乗組員が体験した宮古島の人々のもてなしは、当時の世界常識から考えると信じられないほど善意に満ちた行為であり、特別の感謝の思いをもって記録に残し、世界に伝わりました。

一方、わが身の危険をも顧みることなく荒れる海で救助を行い、物資を運び出した宮古島の人々は依然として人頭税の重圧の中で暮らしていました。 日々の世話を担当した多くの村人も、自分たちの境遇にも関わらず慈しみをもって救出した人々のために働いていました。

このドイツ商船の救出に関しては国内にも記録がありますが、その多くはその後のドイツ皇帝からの 「博愛記念碑贈呈」 などの話に重きがおかれ、多くがそれにまつわる顛末です。 役人の記録ですので、関係した役所と役職を持っている人々の名前は丁寧に掲載されていますが、救助に当たった人や日ごとの世話をする地元の人々は、「漁師」 とか 「村民」 とあるだけでまったく名前が記録されていません。

ドイツ商船の救助でも、実際に危険を冒して必死の救助活動をしても名前を覚えられることのなかった人々を私たちは 「宮古島のヒーロー」 と呼び、これから先も長くその勇気ある行動を語り継いでいきましょう。

 
 
1873年(明治6年)

5月14日
ドイツのハンブルグ港を出港した紅茶などの交易をおこなうスクーナー型の帆船 R.J.ロベルトソン号(長さ約40メートル、幅12メートル、総トン数216トン)は、中国の広東に入港しました。 この船の所有者は、船長で貿易会社を経営するドイツ人のエドュアルド・ヘルンツハイムです。
福州(ふっちゅん)港に向けて出港する時に、2人の中国人を乗船させています。
 
6月8日
福建省の福州港に入港し、紅茶の積み込み作業などを行いました。

7月2日
福州港から、オーストラリア南部のアデレード港に向け出港しました。 出港後、船長は天候が悪化しはじめたので東シナ海から太平洋に抜けるコースを予定より北側に変更しました。

右の図は、R.J. ロベルトソン号と同様規格の帆船です。


Photo Courtesy:
Plattsburgh Republican Archives

7月9日
先島の南を航行中に台風に巻き込まれ、暴風の中での必死の操船作業中ロベルトソン号のマスト2本が折れました。 この時、乗組員2人がマストの下敷きになり負傷し、その後死亡しました。
また、嵐にもまれる甲板でほかのドイツ人2人と中国人1人も負傷。 この日、帆船に積んでいた3艘のボートのうち、2艘が流されてしまいました。
この時、すでに船は航行不能となり高波にもまれながら漂流をはじめました。

7月11日
この日の夕方、3日間漂流していたロベルトソン号は、宮古島の宮国地区で当時は浦穴川といわれていた海岸から約1,100メートル沖にあるサンゴ礁に座礁しました。
遠見台で見張りをしていた宮古島の番人が、すぐに外国船が座礁したことに気づき、役人に伝えるとともに、村人に呼びかけて救助に向かう準備を始めました。

村にあった長さ4メートルの小型舟で救助に向かおうとしましたが、この時にはまだ波が高くとても沖まで救助に行くことが出来ませんでした。 そのうちに夜も更けてきたので、その日の救助をあきらめました。

村人は船の乗組員を励ますために、海岸で夜通しかがり火を焚(た)き続けました。

この地図はロベルトソン号の救助について記録された、「独逸国商船遭難救助並同国皇帝建碑顛末書」 に掲載されているもので、宮国沖の 〔X〕 印が遭難場所です。


7月12日
朝早くから村人は役人と共に舟の操作が上手な漁師を選び、2艘の船でロベルトソン号に救助に向かうことにしました。沖のロベルトソン号を見ると、乗組員が長い白布を振って必死に救助を求めているのが見えます。
波はまだ高く、とても船を出せるような状態ではありませんでしたが、この様子を見ていた漁師たちは勇敢に危険な海に船を漕ぎだしました。高波のために漁師たちの漕ぐ船は、何度も転覆しそうになりましたが、日ごろから荒れる海で漁をしている漁師たちの巧みな操船でなんとかロベルトソン号に着きました。
ロベルトソン号には、負傷者3人と女性1人を含む8人いることが分かりました。 早速ロベルトソン号に1艘だけ残っていたボートを海に降ろし、彼らの大切な手荷物もできるだけボートに積み込んで3艘は海岸へと戻りました。


 メモ 1: この女性については多くの推測がありますが、"The Island of Formosa: Historical view from 1430 to 1920" に、救助された女性は「船長の妻」と記録されています。 これらの背景については、このページ下の 「メモ 2」 から 「メモ 4」 をお読みください。


一方、救助活動にあわせ、村の在番所は急ごしらえの救助センターとなりました。 病人や負傷者のために医師も2名呼ばれ、手当てをしています。
また、在番所の周りには役人たちが24時間体制で警護が出来るように、4軒の簡易宿泊小屋が村人によって作り始められました。

さて、在番所では元気な乗組員に対する事情聴取も始まりました。 船はドイツからのもので、6名がドイツ人(内女性が1名)で、2名が中国人であることはわかりましたが、当時宮古島にはドイツ語の分かる人がいなかったので、絵を描いたり身振り・手振りで状況を確認していきます。
そうして、この日の夕方までにはおぼろげながら、座礁するまでの状況が判ってきました。

夜になると、さらに多くの村人たちが集められ、在番所の周りには照明のための篝火(かがりび)が焚かれ、明かりが途切れる事のないようにしています。

7月13日
波もやや収まってきたので、ヘルンツハイム船長はロベルトソン号からできるだけ荷物を陸揚げしたいと村役人にお願いしました。
漁師たちは村役人の指示に従い、ロベルトソン号まで何度も往復し、船に残っていた荷物を在番所まで運びます。 荷物といっしょに、船で飼われていた小鳥や、羊、猫も救助することができました。
また、座礁の時の衝撃で多くの荷物がすでに海に流れていたので、漁師の人たちは海に潜り探しました。 しかし、すでにほとんどのものが流され、海底から引き揚げることが出来たのは茶箱1個だけでした。

また、ロベルトソン号が潮に流されないようにサンゴ礁に綱で固定する試みもしましたが、昼頃になると再び風速が強まり危険な状況となりました。
ヘルンツハイム船長が、 「これ以上作業を続けると、村人をも危険な目に合わせるので、ここでやめましょう。」 と申し出たので全員引き揚げました。

その日の午後4時頃、強い波でロベルトソン号はさらにサンゴ礁に高く持ち上げられると、船体がばらばらになり大破(たいは)しました。

7月14日
こうして救助された8人の在番所での生活が始まります。 負傷した人たちは医師の手当てを受け順調に回復していきます。自分たちの国に帰るための方法についても、役人たちに相談しました。

役人たちも毎日接して、人情的にも帰国したいとの思いに同情し、那覇行きの船で琉球王府に向かい、ドイツ人と中国人が帰国できるための船を中国の福州か広東まで出してもらえないかと直接お願いしました。 しかししばらく待っても、返事がないため再び那覇に行き、お願いをしましたが、それでも琉球王府からは何の返事もありませんでした。

当時、平良港には王朝が所有する帆船が1隻停泊しており、使われていませんでした。 ヘルンツハイム船長は、「中国まで送り届けてくれる船が手配できないのならば、この船を一時借りることはできないでしょうか?」 とお願いしました。 しかしこの船を貸すにもやはり琉球王朝の許可がないと貸すことができません。

8月8日
ロベルトソン号の乗組員が救助されて、既に27日が経過しています。 毎日大切に扱われ、食事も十分ではあっても、船員たちは帰国への思いが強まり元気がありません。
この様子を見て役人たちは、当時の記録にこう書いています。

【首里政庁に再度も官船貸与の願いを重ねたが、ただ日を過ごすのみにて埒明かず、人情黙し得ざる宮古在番は、遂に本島よりの官船1艘を彼らの航行に給与を執行した】

つまり、人の人情としてこの状況を見過ごすことができないので、宮古在番所が、自らの責任で船を与えて帰国させる道を開いたのです。

8月9日
平良港に停泊していた官船の試運転が、ヘルンツハイム船長と乗組員によって行われました。

8月11日
村人が多数動員され、官船に必要物資の積み込みが始まります。

8月16日
ヘルンツハイム船長と乗組員のために、在番所で盛大な送迎会が行われました。

8月17日
出港の日、宮古島よりヘルンツハイム船長と乗組員のために大量の贈り物が船に積まれました。 その目録があります。
1.羅針盤(らしんばん)
2.薪と木炭
3.飲料水
4.食料

こうして、ヘルンツハイム船長と乗組員は感謝と帰国できる喜びにあふれ、宮古島の多くの人の見送りを受け、涙を流しながら出港しました。
船がサンゴ礁の間を無事に通過して安全な外洋に出ることができるように、池間島の船大工が所有する船など2隻のくり船が水先案内を務め、伊良部島の沖合12kmまで見送りました。

8月19日
船は2人の中国人を下船させるために、台湾北部の港町基隆(ケールン)に立ち寄り、その後福州港へと向かいました。

1876年 1月
弟のフランツが資金調達のための活動を行うと同時に、新聞などを通じて西太平洋進出を伝えるへルンツハイムの手記を新聞などで紹介しました。

この手記で宮古島の話を知った皇帝ヴィルヘルム 1世は、すぐさま謝意を伝える使節として艦船チクローブを日本に派遣することを決め、博愛記念碑を宮古島に立てることになりました。

3月16日
ドイツ皇帝の勅命による艦船チクローブ号が宮古島に到着しました。

3月22日
チクローブ号の使節団、日本政府、沖縄県、宮古島の代表が出席して博愛記念碑の建碑式が行われました。
   写真は昭和9年(1934年)頃撮影された博愛記念碑です。
 
 

 メモ 2:
 なぜドイツの貿易商、へルンツハイムがこの時代アジアに来ていたのですか?
 なぜ宮古島での救出がドイツ皇帝ヴィルヘルム 1世の心を強く捉え、特別使節を送って
博愛記念碑を宮古島に立てるにいたったのですか?

これらの疑問に答える、時代的背景があります。

1871年、ドイツ統一を実現させて間もない皇帝ヴィルヘルム 1世は、当時すでに他の列強国が推進している太平洋南方諸島への覇権争いに加わり、この地域での勢力の拡大のための動きを活発化させました。

このような国家方針に力を得て、若き貿易商へルンツハイムも宮古島で座礁する1年前の1872年には既にパラオに交易所を開設し、ニューギニアなどソロモン諸島からマーシャル群島までの広い地域での交易を計画していました。
へルンツハイムは、この地域での数少ないドイツ人商人として当時多くの記録に残されており、この後約40年ほど続く南西太平洋地域での 「ドイツ時代」 を築く先駆けの一人でした。

また、へルンツハイムと彼のビジネス・パートナーで2才年上の兄フランツは、事業拡大のための資金を集めるため、何度かドイツに帰国しました。 帰国に合わせ投資家の説得材料としてヘルンツハイムの手記を出版するなど、事業家として総合マネージメントに優れた才能を発揮。 同時に政府との連携策も怠りなく行って、1883年には北西太平洋地区ドイツ国総領事として任命されるなど、確実に影響力を強めていきました。

皇帝ヴィルヘルム 1世が宮古島でドイツ人が救助されたことを知ったのも、このようなドイツ国内の投資家向けに行ったへルンツハイムの旅行記の新聞記事だったようです。
記事には、「宮古島の人々は、他の国では考えられないくらい親切で、代償を求めることなく必要なものを分け与えてくれた」 と、救助された後の待遇がどれほど当時の世界常識では “到底考えられないほどの心温まるもてなし“ であったかが綴られていました。 この記事が、ドイツ皇帝による博愛記念碑贈呈へとつながります。

このような時代的背景から、当時のドイツにとって中国の各港や沖縄地域は、表の庭から裏庭に抜ける通路の途中の補給基地程度の感覚であり、わざわざ遠くまで出かけるというのでなく、仕事や買い物のための通り道のようなものでした。

1873年の航海には、へルンツハイムもソロモン諸島やマーシャル列島での新生活に向けて妻を同行していたのかもしれません。


 
 
メモ 3: R.J.ロベルトソン号の船長、エドゥアルド・ヘルンツハイムの生涯

1847年5月22日
ドイツのフランクフルトの西約40kmにあるマイン市で生れました。
マイン市の進学校に入学し、その後化学者になるためダーマスタッド市の学校に入学しました。
しかし、この学問は自分に向かないと考え、法律家の父親と相談したうえで法学部に進学するための準備を始めました。

1863年
父親が急死。 法律家になる道が絶たれました。 そこで彼は、急きょ東部のアスカッフェンベルグ市の会社で働き始めます。

この間、ヘルンツハイムは世界地図や世界旅行の本に魅了され、読みふけりました。

1865年
「寝食が保障されていて、世界旅行ができるのだから体験してみると良い」 との叔父のアドバイスを受けて海軍志願兵となりました。

Photo Courtesy: Rabaul Historical Society
1866年
海軍を除隊し、デンマークとの国境に近い港町キエールの海兵学校に入学し航海術を学びました。

1867年
船長の資格をとり、中国とオーストラリアを結ぶ交易船の船長を5年間務めました。

1872年
貿易会社を設立し、パラオに南西太平洋交易の拠点として交易所を作りました。

1873年 
ハンブルグから中国経由でオーストラリアに向かう途中、宮古島近海で台風に遭遇し、船は座礁しましたが宮古島の人々に生存者全員が救助されました。 この時ヘルンツハイムは26歳でした。

1875年 
ヘルンツハイムの事業に兄のフランツも参加し、交易拠点をヤップ島をはじめ5か所に拡大しました。 またこの年は、二人ででメキシコにも旅行しています。

1876年
1月、兄のフランツがドイツに一時帰国し資金調達のための活動を行うと同時に、新聞などを通じて西太平洋進出を伝えるへルンツハイムの手記を新聞などで紹介しました。
この手記で宮古島の話を知った皇帝ヴィルヘルム 1世は、すぐさま謝意を伝える使節として艦船チクローブを日本に派遣することを決め、記念碑を宮古島に立てることになりました。

1878年
地震や原住民の反乱などの影響から、会社の業績は減速しましたが、それでもある程度の利益を確保できたので、蒸気船 パシフイック号を購入しました。

1883年
ヘルンツハイムは、資金調達のためにドイツに戻ります。 またこの時のドイツ議会でのロビー活動が功を奏し、北西太平洋地区ドイツ国総領事となりました。

1892年 
45歳でヘルンツハイムは、南太平洋地区の事業をほかの会社と合併させ、事業から引退しドイツに帰国します。
ヘルンツハイムが南太平洋各地で収集した多くの品々は、ドイツに持ち帰りベルリンやハンブルグの博物館に寄贈されました。

1909年 
ヘルンツハイムが手掛けた南太平洋での事業が縮小されました。

1914年
ヘルンツハイムが南太平洋各地で所有していた不動産や資産は、国際情勢の変化と共に現地政府などに次々と強制収容され、この年までにほぼ消滅しました。

1917年
4月13日、ヘルンツハイムはドイツ国内で死亡しました。 70歳でした。
 
 
 メモ 4:  R.J. ロベルトソン号とヘルンツハイムの妻に関する記録

1873年 1月 4日
下の新聞の切り抜きは、1873年1月4日(土)のオーストラリアの新聞 シドニー・モーニング・ヘラルド紙のものです。
この日の記事をマイクロフィルム版で読むと、告知欄に 1月3日にシドニー港から出港するための通関手続きを終えた船舶4隻の税関告知があります。
下の拡大部分がその告知ですが、そこに、R.J. ロベルトソン号の名前があります。 そして船長の名前が ヘルンツハイム、 乗客名がヘルンツハイム夫人、行先は香港となっています。



The Sydney Morning Herald (Degitised) , Saturday 4, January 1873
 
 

昭和18年(1943年)発行の文部省 初等科 修身. 第二で紹介された、ドイツ商船救助の話し
内容は、下のイメージをクリックしてPDF版でお読みください。

 

 
 

参考資料:
1. South Sea Merchant: Eduard Hernsheim 1917
2. The Island of Formosa: Historical view from 1430 to 1920
3. Rabaul Historical Society: Merchant and forerunner of German colonization
4. John Oxley Library
5. State Library of Queensland
6. The First Taint of Civilization: A History of the Caroline and Marshalls
7. Grundriss der Japanologie
8. Mitteilungen der Geographischen Gesellschaft in Hamburg, Volume 9
9. Australia National University
10. Cambridge Digital Library
11. The East of Asia Magazine: An illustrated quartery, volume 3
12. 独逸国商船遭難救助並同国皇帝建碑顛末書  沖縄県宮古郡教育部会 編 (昭和10年)
13. Fire Mountains of the Islands: R. Willy Johnson
14. Brigham Young University, Comparative Civilizations Review
15. Strangers in the South Seas: The idea of the Pacific in the Western thought
16. The Sydney Morning Herald (Degitised) , Saturday 4, January 1873
17. Australian Dictionary of Biography, Volume 4
18. 文部省 初等科 修身. 第二
(文部省 昭和18年)

 
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