宮古上布
 

宮古上布の物語は今から435年ほど昔の安土桃山時代、大親町天皇の在位後期の天正8年(1580年)に始まります。
この頃、宮古島の洲鎌の役人に真栄という人がいました。 真栄の幼名(子供時代の名前)は嘉和良(ムアテアガーラ)で、泳ぐのが得意だったようです。
役人になってから、真栄は上地の役人の娘でしっかり者と評判だった稲石(いないし)と結婚しました。

1580年、真栄は公務で首里の中央役座(今の役所)に出張しましたが帰りの船が暴風に襲われ、中国まで流されました。
幸い漂着したのが、琉球王国時代の中国貿易基地だった福建省の福州市の近くでした。 真栄たちは、この時ちょうど福州港に来ていた琉球王朝の進貢船に乗り、使節団と共に沖縄に向かいました。

ところが、またもや船は暴風に襲われ、激しい波で船をコントロールする舵(かじ)を船体に取り付けていたロープが切れてしまいました。
舵が使えなくなると、船は高波を乗り切ることができず、転覆してしまいます。

このことを知った真栄は修理用のロープをつかむと、荒れる海に飛び込みました。 そして、舵を取り付けるための穴にロープを通し、しっかりと固定させました。

こうして進貢船は、無事に首里に帰ることが出来ました。 その後この船に乗り合わせていた使節団の人たちは、真栄の働きで進貢船が沈むことなく帰還できたこと、使節団員全員が無事に帰国できたのも、真栄の勇気ある活躍のおかげであると尚永王に伝えました。

尚永王はたいそう喜び、真栄を下地首里大屋子に任命しました。 大屋子とは親雲上(ペーチン)の地頭職といわれる、士族でもとても高い位です。

宮古島に戻った真栄がこのことを妻の稲石に伝えると、稲石は得意の織物で素晴らしい反物を織って感謝の思いを尚永王に伝えたいと考えました。
そして約3年後、記録では天正11年(1583年)に綾錆(アヤサビ)布と呼ばれる反物を仕上げて献上しました。 尚永王も稲石の織り上げた綾錆布の素晴らしさを称え、賞を与えました。

その後約20年間にわたり、
稲石は毎年尚永王と、尚永王の死後(1589年)は後継の尚寧王に綾錆布を献上し続けました。
この時の原料は、今の宮古上布と同じイラクサ科の多年草苧麻(ちょま、別名:カラムシ)を紫色に染色し、大名縞と呼ばれる細かな縦縞織で織りあげたものです。
稲石はその後も製造法を次々と改良し、村の人々にも技術を伝えました。

1583年に開発された稲石の上布は織上がりの美しさだけでなく、技術的にもとてもレベルの高いものだったので、1609年の薩摩藩による琉球王朝支配が始まると同時に、琉球王朝だけではなく、薩摩藩や江戸幕府への一級の献上品として用いられるようになりました。

この時代、綾錆布は太平布と呼ばれ製造にも役人が関与するようになりました。 また薩摩藩では薩摩上布と名付けて大阪や京都の呉服問屋に送り、とても評判になりました。

そして1637年、宮古上布に関わる人々にとっては辛(つら)すぎる266年にわたる人頭税の時代に入ります。 高度の製法で織られた宮古上布は高く評価され注目されていたので、薩摩藩は宮古島の生産可能な量以上に生産するように要求しました。 

また、琉球王朝も薩摩藩を満足させて自分たちの要求を通しやすくするために、無理な量であっても宮古島の役人に生産量を上げるように強く命じました。

宮古島の人々を苦しめたのは薩摩藩や琉球王朝だけではありませんでした。 首里から派遣された役人や宮古島の役人たちは、自分たちの私財を増やすためや、地位を上げるために余分に宮古上布を織らせて首里の役人への贈り物として使っていました。

さらに、同じ宮古島に住む人々でも士族と言われる身分の高い人の多くは、自分の家族の負担を軽くするために、身分の低い人々に自分たちの分も作業を押し付けていたので、農家の女性は昼は農業、夜は糸作りや織など要求された作業を仕上げるために寝る時間もないほどの苦労を重ねました。 

その後、予定通り生産するために役所は自宅で織り上げることを禁止し、村の番所に苧績屋(ブンミャー)と呼ばれる貢布製造小屋を作りました。 上布を織る女性たちは毎日ここに集まり、役人の厳しい監視のもとで夜遅くまで作業を続けました。 女性たちにとってブンミャーでのもう一つの苦労は、夜遅い作業中にも役人たちのために食事や酒宴の準備までさせられることでした。

宮古上布の生産を困難なものにした理由がもうひとつあります。 それは、薩摩藩がはじめた新しい織柄・織出し(デザイン)の注文です。 薩摩藩に続いて、琉球王朝の役人や宮古島の役人たちも自分たちの評価を高めるために、技術的にとても難しい柄を織るように命令しました。

こうして、宮古上布はその後266年間(当時の平均寿命で約8世代)にわたる長期間宮古島の人々、特に製造にたずさわった女性にとって耐えがたい苦しみの象徴となってしまったのです。

下の表は、人頭税が廃止される10年前の明治26年(1893年)に沖縄県がまとめた宮古島における上布など織物の租税割り当ての実態です。 前にもふれましたが、実際には表にある士族の納付反数も多くの場合平民正女(村の女性たち)が織っていました。

布の種類 反数 納税者身分
白上布 79反 士族正女
白中布 55反 士族正男女
白下布 294反 士族正男女
紺細上布 1,111反 平民正女
白細上布 182反 平民正女
 
人頭税廃止にともなうコメント:

人頭税の時代、宮古上布の厳しい品質管理体制は製法技術を高めるという意味では一定の評価もできますが、すべての工程において強制性の高い、島の女性たちにとってすざまじい苦しみをともなう劣悪な製造環境であったことが、とても残念です。


MEMO:
人頭税については、こちらで詳しくお読み頂けます。
人頭税の時代、宮古上布はどのようにして作られていたのかについてもっと知りたい方は、多くの報告書がありますので図書館などで調べてください。


1903年(明治36年)に人頭税が廃止されると、宮古上布は民間の事業として生産が継続されました。

1914年、宮古機業研究所が設立されました。 機業とは当時盛んだった織物業のことで、平良尋常小学校の補習科として併設された教育プログラムです。
普通学科と共に織物に関する知識を学び、実習は各家庭において行いました。

指導員が各家庭を巡回して子供たちの織物技術を向上させ、宮古上布の生産性を高めることに大きく貢献しました。

MEMO:
右の写真は、1933年(昭和8年)の機業研究所の生徒と教員ならびに指導員です。
宮古上布


1921年(大正10年)、宮古上布は東京で開催された平和記念東京博覧会で、麻織物の最優秀品として染織館で展示されました。

宮古上布が最も多く生産されたのが、1905年から1930年でした。 この間、多い年では約18,000反が生産されています。


MEMO:
写真は、1921年7月発行の The Trans-Pacific Magazine に掲載された平和記念東京博覧会の広告です。


1923年(大正12年)には、品質の改良と価格の安定のために宮古上布織物組合が結成されました。 左の広告は宮古郡織物組合が1920年代の雑誌に掲載したものです。

1930年代に入ると、宮古上布の原料である苧麻(ちょま)が干ばつや台風により順調に収穫できず、原料不足になりました。 そこで、織物組合は台湾から苧麻を輸入して原料を確保しました。 

台湾中部台中市の南東にある、埔里社地区の頭社盆地や少数民族の九族が住む日月湖地区は無風地帯として知られており、折れたり倒れたりしていない上質の苧麻を手に入れることができました。 ただ、一部の記述では台湾産の糸積作業はとても手間がかかった、との記述もありますので、品質にバラツキがあった可能性があります。

MEMO:
広告の中で 「一名薩摩上布」 とある ”一名” は、「〜〜と呼ばれている」 の意味で、「薩摩上布とも呼ばれている宮古上布」 と紹介しています。


1940年、戦時下でのぜいたく品や高額商品の製造が禁止され、宮古上布も製造できなくなりました。 下のグラフは、宮古上布生産の最盛期ともいえる明治時代後期より昭和15年の生産中止までを10年区切りで平均値を表したものです。

宮古上布
 
1946年、宮古上布の生産を再開するために、宮古織物業組合が設立されました。 しかし、原料不足で生産量はとても少なかったようです。 2年後の1948年には、約300反が生産されました。

1952年、宮古上布の生産体制が整備されて、年間2,000反ほどが生産されました。

1958年、宮古上布はベルギーのブリュッセルで開催された万国博覧会 Expo 58, (The Brussels World’s Fair) の日本館で展示されました。
MEMO:
左はブリュッセル万国博の公式ポスターです。 また上の写真は、プリュッセル万国博に参加した日本館 (Japan Pavilion)で、宮古上布もこの日本館で展示されました。

展示会場の写真です。宮古上布が海外の多くの人に紹介された歴史的なイベントでした。
(Photo Curtesy: Architectural Press Archive / RIBA Collections)


1975年、宮古上布は久米島紬と共に沖縄で初めての経済産業大臣による伝統的工芸品に指定されました。 この年の宮古上布生産量は 532反でした。

1978年、宮古上布の製造技術に対し文部科学大臣より重要無形文化財に認定されました。 この年の宮古上布生産量は312反でした。

2003年、宮古上布の苧麻糸手績み技術が文化庁による国選定文化財保存技術となりました。  この年の宮古上布生産量は 11反でした。

下のグラフは沖縄が日本に返還された年、1972年より2014年までの宮古上布の生産数をまとめたものです。

 
宮古上布
上記のグラフは、1972年から2014年までの宮古上布生産量 を 沖縄県産業課 HP 「宮古概観について」 を参考に作成しました。
 

参考資料:
1.紀行満州・台湾・南海島  石山賢吉著 1942年
2.平良町誌  1934年
3. 史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第10号 内務省 編  1920年
4. 沖縄県旧慣租税制度
5.Harvard Art Museums, Asian and Mediterranean Art
6.The Trans-Pacific Magazine (July 1921) B. W. Fleisher
7. A.S.B.L. Atomium Square de l'Atomium, Brussels, Belegium
8. 沖縄県立図書館 レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
9. 沖縄県 産業課 HP 宮古概観について(1972年より2014年までの宮古上布生産量)
10. Terry's Japanese Empire, Phillip T. Terry 1914
11. Asiatic Pilot (Volume II) The Japan Islands, 1910 Washington Gpvernment Printing Office
12. 平和記念東京博覧会審査報告. 下巻 平和記念東京博覧会 編 1923年
13. 台灣苧麻相關文獻的抄録 (1943)
14. Architectural Press Archive / Royal Institute of British Architects Library, London

 
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