宮古島は、昔から森林の少ない島でした。
また島内にある木々も、フクギやカス木、デイゴなど小さなものばかりでした。
家を建てたり、船を造ったリするほどの大きな木がなかったので、宮古島では船を作る材木は沖縄本島や八重山から運んでいました。
写真は大野山林 |
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琉球王朝時代の1655年に、下地親雲上(しもじぺーちん)の役職だった白川氏恵根(しらかわうじ・けいこん)は、沖縄本島に出張した帰りに小さな琉球松を数本宮古島に持ち帰り、大武山(いまの野原山)と島尻地区に初めて植えました。 これが宮古島における植林(しょくりん)の始まりです。
さらに1681年(天和元年・江戸幕府・徳川綱吉の時代です)に、白川氏恵根は琉球王府行政庁にお願いして、琉球松の植木を2,000本宮古島に持ち帰り、州鎌(すがま)地区に植えました。
宮古島での本格的な植林事業がスタートしました。
また、白川氏恵根は宮古島の農業のためにもつくし、多くの新しい農業の技術を沖縄本島で学び、島の農家の人々に講習して収穫量を増やすための技術を伝えました。
(白川氏恵根については、こちらをご覧下さい) |
恵根と共に忘れてはならないのは琉球王国の政治全般をおこなう国師といわれた、蔡温(さいおん・1682年 - 1762年)という人です。 蔡温(さいおん)は林政八書という「琉球の島々のための森林企画書」をつくりました。 その中で「宮古島は山林が少ないので、造林地を設定して植林事業を活発に行うこと」との方針を決めたことで、宮古島の造林活動が本格化しました。
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1715年 (正徳5年)、宮古島には3人が森林造成監督官に任命されました。 その後、大野山や野田山の2.34ヘクタール(宮古島市民球場の約2倍)や宮古島の八つの村々あわせて21ヘクタール(宮古島市民球場16個分)に沖縄本島から取りよせた、松、杉、桐(キリ)、槇(しん)などと共に柚子(ユズ)や山桃などの果物の木も植えられ、島内で森が順調に育っていました。
また、この時はフクギや島に昔からあったカス木など、宮古島の在来種(ざいらいしゅ)もたくさん植えました。 この時代に、すでに在来種を守ることが行われていたのです。 |
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ところが、100年くらいの間に、宮古島での植林事業は大きく変化しました。 1893年には「島政改革・人頭税廃止」を求める島民に対し、人頭税の廃止に反対し妨害する旧支配層によって木が次々と切りたおされました。 |
その理由は、森林として木が植えられた場所の旧地主だった多くの宮古島の人たちは、畑が森林になると島民に貸して人頭税の分け前が取れないので、大反対していたからです。 それ以前からも、宮古島の旧地主たちはせっかく植えた木をすぐに引き抜いたり、順調に育っている木を切り倒し森ができないように妨害を続けていました。
さらに、1899年沖縄県では国有地の民間への払い下げが行われたために、宮古島でもたくさんの森が個人の持ち主となりました。 そのため、森の木を売ってお金をもうける人が多く、宮古島の山林はまたたく間に少なくなりました。
また、1940年代の第二次世界大戦当時は、軍隊が陣地や兵舎を建設するために木を切り倒し、兵隊用の食糧を増産させるために山林を次々と畑に変えていきました。
終戦直後にはさらに物資が不足し、盗伐(とうばつ)といって人の所有する木を勝手に切り倒してお金に変える者や、市民が食事を作るための薪(まき)を手に入れるために子どもたちを使って小さな小枝までも集めていたので、森の木はますます少なくなっていきました。
戦後最初の人口調査の行われた1950年(昭和25年)には、平良市と近郊の村には合わせて74,618人、15,873世帯が住んでいたので、それぞれの家庭で毎日調理をするためにはとても多くの燃料用の薪が必要でした。 |
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1955年当時、宮古島の森林率はそれでも島の30%もありました。 ところが1972年の復帰後には、島の開発工事が続き森は急激に減少したのです。
1994年には16.3%、2006年には16.2%まで減ってしまいました。
1995年に植樹・育樹による森林を造る目的で、宮古島に森林組合ができました。
宮古島森林組合の予測では、この森林率をわずか1%増加させるだけでも10年かかるということです。
宮古島に緑の森を増やし豊かな水源を守るためにも、観光開発や新たな宅地造成、農業や新たな産業のために森林を切り倒すことがないようにしなければなりません。 |
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白川氏恵根(しらかわうじ・けいこん)は、1624年に生まれました。 この当時の宮古島の公吏(役人・公務員)としては10回以上と、かなり多くの回数沖縄本島、首里の琉球王府行政庁に出張しています。
この時代に、宮古島から沖縄本島に船で旅をすることは命がけでした。 恵根の乗った船も一度は八重干瀬で難破(なんぱ)、また悪天候で鹿児島県に漂着(ひょうちゃく)したこともありました。 でも、恵根は恐れることなく王朝の許可を申請し、沖縄本島に数多くでかけて農業の技術と植林の技術を学び、宮古島の人々に伝えていたのです。
しかも農業の技術講習を一番多く行っていた時、恵根はすでに60歳になっていました。 そして 1702年、78歳の時に病気で亡くなるまで、宮古島の農業の発展のためにつくしていたということです。
恵根が死亡したのは1702年10月3日、よく知られる赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入りの日、12月14日のわずか2ヶ月ほど前のことです。
恵根の植林に対する情熱は、1730年代にひ孫の恵通に受け継(つ)がれ、宮古島に広大な植林地ができ上がったのです。 |
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参考資料:
「森を作る話」 をまとめるにあたり、以下の資料を参考とさせていただきました。
琉球統計年鑑: 琉球政府 企画統計局 (1955 - 1966)
宮古史伝: 慶世村恒任(きよむら・こうにん)
宮古八重山地区森林計画書: 沖縄県 |
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