このサマラン号の活動には実に多くのミステリーがあります。 |
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Q1 |
軍艦なのに、サマラン号には植物や動物の研究者も乗っていたというのは、本当ですか。 |
A |
本当です。 彼の名前はアーサー・アダムスで、動物学者で博物学者であり、医師でもあるアダムスはサマラン号には医師の助手として参加しました。
アダムスは、調査のために停泊した各地でとても多くの標本を集めるとともに、学術的に正確でしかも美術的にもレベルの高い動物や植物のスケッチを大量に残しています。
アーサー・アダムスのスケッチと調査記録は、 "The Zoology of the Voyage of H.M.S Samarang" で見ることができます。 |
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Q2 |
進化論で有名なチャールズ・ダーウィンとサマラン号は、どのような関係があるのでしょうか? |
A |
進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは、サマラン号の前の艦長 パジェットの友人で、ブラジルで何度か会っています。 ダーウィンは日記の中で、「パジェット艦長とは、多くの共通する話題がある。」 と書いています。 また、ダーウィンの乗る調査船 ビーグル号とサマラン号は一時期ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを基地港としていたので、おもな交流は、リオ・デ・ジャネイロや近くのバイア(Bahia) 港に停泊中の船や市内で行われていたようです。 |
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Q3 |
宮古島について、「サマラン号に乗っていた3人が出版した本に書いてある」 というのは本当ですか? |
A |
本当です。 その3人は、ベルチャー艦長と植物・動物の研究者 アーサー・アダムス、そして地理調査を担当していた海軍士官候補生の フランク・マリヤットです。
なお、この3冊の本で紹介されている宮古島についての記述がほとんど同じ内容であることから、航海中に3人のメモをまとめて艦長の記録とした、あるいは、それぞれ出版する時に先に出版されていたものを参考にした、と考えられます。 その3冊は以下です。
ベルチャー艦長: Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang (1848年出版)
アーサー・アダムス: The Zoology of the voyage of H.M.S. Samarang (1850年出版)
フランク・マリヤット: Borneo and the Indian Archipelago (1848年出版) |
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Q4 |
サマラン号は、アヘン戦争に参加していたのですか? |
A |
はい。 記録では、1841年の2月26日、7月1日、そして12月26日の3回出撃しています。
このスケッチは、1841年のアヘン戦争におけるイギリスと中国の軍艦による戦いの様子です。
この絵には、“1841年1月7日、香港 アンソン湾の戦い” と記されています。
Photo courtesy: The Naval History of Great Britain
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Q5 |
サマラン号は、奴隷の輸送もしていたというのは本当ですか? |
A |
サマラン号はイギリスの軍艦なのに、1830年代にブラジルのサトウキビ農園で働く奴隷をアフリカから運んでいたようです。 チャールズ・ダーウィンも日記の中で、その事実を知ってかなり落ち込んでいると書いています。
また、詳しい事情は Adrian Desmond とJames Moore 共著の Darwin's Sacred Cause: How a Hatred of Slavery Shaped Darwin's Views on Human Evolution で読むことができます。 |
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Q6 |
サマラン号は長崎を訪問し調査を開始したのに、なぜ打ち払われなかったのでしょうか? |
A |
宮古島に来た次の年 (1845年) に長崎に寄港し上陸して調査を開始したので、あとで大問題となりました。
実は、ベルチャー艦長は長崎藩の警戒が強いので正面からでなく、近くの島に回って夕方上陸し朝まで調査を行いました。 ただ、藩がどこまでタイムリーに調査の動きを掴んでいたかは判っていません。
いずれにしても、サマラン号の調査部隊が長崎の近くの島に上陸し、地理的調査を行ったことに対しては、ヨーロッパ各国に大きなインパクトを与えたようです。
また、サマラン号の測量担当者の記録の中に、「長崎に関しては、上陸しなくとも沿岸付近を航行しながら、必要な測量は出来た。」 との記述もあるので、サマラン号は 18世紀より始まった三角測量や多角測量のための、最新測量機器と優れた技術者がいたのでしょう。
長崎藩が打ち払わなかった理由は、フリゲート艦サマランの上甲板にある 32ポンドカロネード砲 20門 と後甲板にある18ポンドカロネード砲 6門のあわせて26門の大砲を見て、とても打ち払うことの出来る相手ではないと考えたのかもしれません。 |
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Q7 |
ベルチャー艦長が2度も沖縄に来ているというのは本当ですか? |
A |
本当です。 サマラン号のエドワード・ベルチャー艦長は、1845年に沖縄本島に寄港していますが、ベルチャー艦長はそれ以前にも沖縄に来ています。
1827年12月、イギリスの軍艦 HMS ブロッサム号の調査技師として沖縄に上陸しました。
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Q8 |
サラマン号とベルチャー艦長の切手があるというのは、本当ですか? |
A |
本当です。 オーストラリア領、ココス諸島のキーリング島が1990年に発行したのが、右の記念切手です。
この切手は、現在も切手マニアの間で取引されています。
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Photo courtecy: Ship Stamps. co.uk |
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Q9 |
プロビデンス号のブロートン艦長の息子が、サマラン号の艦長をしていたというのは本当ですか? |
A |
本当です。 1797年、八重干瀬(やびじ)で座礁したプロビデンス号の艦長だった ウイリアム・ブロートン艦長の息子、ウイリアム・ブロートン (同じ名前のジュニア) も、父と同じようにイギリス海軍の海軍士官となり、1836年10月より1839年10月の3年間 サマラン号の艦長でした。
この話はロンドンの南西50km、ポーツマス市のイギリス海軍工廠(こうしょう)にある聖アン教会 礼拝堂の墓碑にも記されています。 |
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Photo courtesy: Portsmouth City Council, Memorials & Monuments |
「プロビデンス号物語」 は、こちらで読むことができます。 |
「ブロートン艦長」 につぃては、こちらでお読みください。 |
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