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サマラン号

サマラン号


* 教育関係者、保護者のみなさま:

1844年といえば、日本は「天保の改革」が行われた翌年で、日本の周辺に外国船が多数出没したことから、江戸幕府は 1825年(文政8年)以降、外国船を厳しい態度で追い払う、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)をだしていた時代です。 この異国船打払令は 「無二念打払令」とも呼ばれ、外国船が日本の沿岸に近づいたらためらうことなく打ち払うように」 と全国の大名に命じていました。

そのような時代に、なぜサマラン号は 49日間も八重山で調査を続け、宮古島に2週間滞在し、しかも島内を自由に歩き回って調査をすることが出来たのでしょうか?

19世紀初頭、海洋国家で圧倒的な軍事力と経済力をもつイギリスは世界への覇権を一層強く進めていました。 サマラン号の多岐にわたる任務と航海内容にも、そのようなイギリスの思惑を読み取る事ができます。

本文中では、イギリスの軍艦サマラン号 (H.M.S. SAMARANG) の艦暦は紹介しませんが、ベルチャー艦長が八重山や宮古島を訪れた時期は、徳川幕府は上記のような異国船の侵入をいかに防ぐかの対策に忙殺されていました。 琉球を統治する薩摩藩は、相変わらず琉球を実質支配しながらも琉球王朝の独自性をみのがし、中国と交易を続けさせることで、薩摩藩の財源を確保したかったという藩の事情がありました。

一方、 琉球王朝はこの時も重朝貢政策で、中国と幕府に貢物を送り続けていたこともあり、外国船への対応に対しては 「幕府の異国船打払令にではなく、中国の外国船対応政策に合わせる。」 などの使い分けをしていました。
これにより八重山、宮古島および翌年1845年の沖縄本島での調査が可能になったと考えられます。

これらの事情から判ることは、サマラン号の調査が可能だったのは、幕府の異国船打払令を徹底するうえで歴史上のエアーポケットが発生していたため、ともいえます。

このページで紹介するコンテンツは、ベルチャー艦長による宮古島についての記述部分を中心に紹介しています。 また、当時も James Burney の地図を公式に採用していた事をうかがわせる、石垣島や西表島など八重山諸島を含む部分を宮古島諸島と表現をしていることから、艦長の記録にある 「宮古島諸島の人々」 の表現のうち、高い確率で宮古島にも当てはまる記述内容もあわせ、紹介しています。

なお、このサイトはすべて宮古島キッズネットのオリジナル編集による、児童の教育目的に限定しての資料です。 教育現場では自由にお使い頂けますが、一般サイトへの転載はご遠慮下さいますよう、お願い申し上げます。 

(宮古島キッズネット 運営管理部)
 
サマラン号
 
サラマン号 宮古島への航海スケジュール
 
1843年 11月27日 フィリピンのバタン島を出発。
 
 
1843年 11月30日 八重山に寄港
正確には、ベルチャー艦長が名付け Port Hadding (ハディング港) と記録されていた、石垣島の名蔵湾付近 (GPS座標 24.400, 124.0941)です。 
その後49日間にわたり、八重山諸島での調査を行っています。
   
1844年 1月18日 名蔵湾から宮古島に出発。  
   
1844年 1月20日 宮古島に到着か?
宮古島への到着日そのものに関する記述はありませんが、石垣島を出発した日から2日後の1月20日前後が最も可能性が高いと考えられます。
   
1844年 2月04日 宮古島を出発し、バタン島に向う。 宮古島の滞在日数は約2週間でした。
   
 
ベルチャー艦長の見た宮古島の印象
 
1. 人種的な特徴:
日本人や朝鮮人と同じようにみえる。

サマラン号 サマラン号 サマラン号
このスケッチは、ベルチャー艦長の記録、 「H.M.S.サマラン号の航海物語」 に描かれていた、八重山を含む当時の宮古島地域の人々です。
Photo courtesy: Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang
   
2. 島民の性格:
宮古島の人々の性格はとても温厚で、好戦的な姿勢を見ることが無く、滞在中私たちが不快に思う態度をとった島民はいなかった。

一般の島民は、イギリスで例えられる 「お茶を飲む老女」のように、物静かで、好奇心や意思を表に出さず、島の価値観のなかで生きることに一定の満足感をもっている。
これは、島民が置かれている身分では向上すべきチャンスや、多くの知識にふれる機会がほぼ閉ざされていることにあるようだ。

しかし総合的に判断すると、他の国の人々に比べ宮古島の人々はしっかりしており、好意的で、うらやむほど気立ての良い人々である。

編集メモ (その1):
ベルチャー艦長の記録の仕方には一つの特徴があり、時間軸主体の日記的な記録というよりも、“その時々のトピックに関連付け、八重山での記述に宮古島での体験も書き加える” という形での紹介が多くでてきます。
そのような形で紹介されている中で、島の人々の反応がとても良くわかるのが、ベルチャー艦長の測量作業に向けられた宮古島の人々の反応です。

まず最初は、島の高官3人に測量機材を見せて説明している時の情景です。 高官達は、威厳を持った上品なしぐさでタバコを吸い、お茶を飲みながら説明を聞いていますが、じつはその場所に大勢の島民も集まってきてその様子を見ていました。

ベルチャー艦長は、その時の様子をこう記しています。


宮古島の人々について考えると、まず思い出す場面がある。 それは、私たちが今回の訪問の目的を伝えるために村に行った日のことだった。
私たちは、丘の下の小さな広場のようなところで3人の高官たちの丁寧なお辞儀で迎えられた。 その後、マットの敷いているところに導かれ、お茶やパイプタバコでのもてなしをうけた。

そこで周りを見回すと、丘の斜面にそって半円を描くように島の人々が数百人も集まっていた。 この島にはかなり大勢が住んでいるものと思われる。 そのような人々の群れに目をやると、斜面にそって多くの人はしゃがんだり、片ヒザをたてて腰をおろしており、その後ろでは立っている人もみえる。

驚いたことに、この島の人々はこんなに大勢集まっているにもかかわらず、お互いに押し合ったり、押しのけたりすることをせず整然とその位置に留まり、身動きひとつすることなく、こちらの様子を見ている。 今回の私たちの訪問が、彼らの今後にどのような影響を与えることになるのかについての島民の不安が、重苦しいほどにその場を覆っていた。

同時に、この群集が好奇心を抑えられない状況であることも、私たちに充分伝わってきた。

そのような島民の不安と好奇心が最高潮に達したのが、私たちが測量機器を格納(かくのう)する箱をあけ、三脚を開いて経緯儀を取り付けた時だった。

編集メモ (その2):
当時の測量器はすでにかなり高度なものとなっていました。 右が1840年代に開発されたセオドライト型経緯儀(けいいぎ)です。 この測量器を見たときの島民の驚きが良くわかります。

Photo courtesy: NOAA Celebrating 200 Years
/ theodolites


また、ベルチャー艦長がいちばん驚いたのは宮古島の人々の気立てのようです。
サマラン号

馬を借り上げ、測量に必要な機材を運ばせる。 島民にとって、三脚と測量計器は全くのミステリーで、どのような目的のために使うのかが解からなかった。 そこで、測量の準備をしている段階から、多くの島民が強い好奇心を向けていることがわかった。 

しかし宮古島の人々は、持って生まれた特性なのか、そのような中にあっても、けして私たちの作業の妨げにならないようにと、いつも適当な距離をたもち、しかも島民同士も人を押しのけて前に出てくることも無かった。

この島では島の指導者たちに限らず、貧しい住民も聡明さと道徳観をもって暮していることに、とても興味を覚えた。
   
3. 服装:
これまでこの地域を訪れた外国船の記録にあるとおり、着物を着て腰に帯を巻き、着物の袖は多くの場合広くなっている。 人によっては中国の服装に似た衣装を着ている人もいるなど、宮古島に来る前に見た八重山の人々の衣装と同じ。
   
4. 髪型:
髪の毛は黒く、長くしている。 長くたらしたり、頭の中央部できれいにまとめ、「かみさし」とか 「おおしさし」 と呼ばれる鉄製のピンでとめている。

編集メモ (その3):
ベルチャー艦長は、このかんざしに興味を惹(ひ)かれたようで、形やデザインについてとても詳しい描写があります。

「かみさし」の持ち手のほうには細工がしてあり、島でも見かける六片の花びらの花が人気があるようで、多くのかみさしにデザインされている。 

また先端は、ちょうど耳かきのような形状になっていて、実際に耳かきに使ったり、爪の内側の汚れを取るのに使ったりしている。 また、かみさしは時として食べ物を刺して、1本の箸のように使っている人もいる。 「かみさし」 の素材は、持ち主の位が高くなるにつれ金や銀の物もある。
   
5. 帽子:
行事の日、島の高官たちは役所ごとに決められた赤、黄色、あるいは青い色の帽子をかぶり出席する。 なおこれらの行事には、中国のしきたりと同じように女性が同席することはなかった。
   
6. 琉球王府と宮古島の関係: 
宮古島は、大琉球あるいは琉球と呼ばれる王朝により支配されている。 宮古島には、琉球王により任命された役人が駐在している。

琉球王府から毎年、季節風を利用して2隻の船が王府より宮古島と八重山にやってくる。 来る時には、王府より支給される衣類、調理器具、陶器、お茶、タバコ用のパイプなど生活の助けになる物資を積んでいるが、帰りには島民の税金や貢物を回収していく。
年によっては交替役人もこの船で赴任してくる。

王府から支給されるこれらの物資は、島の住民は表面上とてもありがたがって受け取っているように見える。 しかし、なにも気づかないような素振りでも島民はしっかりと流通価格での損得勘定が出来ており、米、イモ、さつま芋、タバコなど王府への貢物として徴収される大量の地元の産物と比較すると、どれ程島民にとって割りに合わないものであるのかをよく分かっている。

また、宮古島は琉球王府にとっては、流刑地(るけいち)のような役割もあるのかもしれない。
   
7. 宮古島の人々との取引:
宮古島の人々は、一般的に知らない人から報酬を受け取ると、後で厄介なことになる恐れがあると考えている。

しかし、私たちが宮古島の滞在中に島の人々から必要な物資を提供してもらった時には、謝礼として布や毛織物のフラネル生地を代価として問題なく受け取ってもらうことができた。
   
8. 宮古島の食べ物:
島民の食事は驚くほど質素だ。 基本はイモか米に野菜で、あとは、イカやしゃこ貝などの貝類が獲れた日には食卓に加えられる。
   
9. 宮古島の住まい:
宮古島の家屋は、四角もしくは並行四辺形で、どの家も同じような造りである。 家は細い路地に面して向かい合うように建てられており、敷地は道路わきに石を積み重ねた塀によって区切られている。

塀の中には庭があり、庭には日よけとなる樹木が植えられている。 家は驚くほど多量の木材を組み合わせた構造で、屋根は急勾配のわらぶき屋根である。 床には、稲わらで作られた7.5cmほどの厚さのマットを敷き詰めているが、このマットはベットの役割もはたしているようだ。
通りに面した方は引き戸になっていて、必要な時には開け放つことが出来る。

住民にとっては家の中を清潔に保つことが何よりも大切であり、家に入る前には必ず履物を脱いで、家の中に土や砂が入らないようにしている。
   
10. 貝殻の利用法: 
宮古島で目についたのは普段は捨てられているような貝殻に様々な細工をして再利用していることだ。 それらの考案の中でも、特に印象的だったのが、二つある。
一つは、門のところに使われる扉 (スイングドア)に使っている貝です。 丈夫な貝の、先のとがっている部分をドアを固定するヒンジ側の下部にはめ込むことで、金物のヒンジや、籐で柱に巻きつけているだけの扉よりも、ドアの開け閉めがとてもスムースになるので驚いた。
サマラン号
二つ目は、大きな法螺(ほら)貝を細工して、囲炉裏でお湯が沸かせるように吊くさびといわれる吊手をつけ、お茶のたびに使っていること。 これも実用性がとても高い、優れた利用法です。
(右上の画像は、 「H.M.S.サマラン号の航海物語」で紹介されている、ほら貝の湯沸しです。)
          Photo courtesy:  Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang
 
 
 
11. 宮古島の作物: 
米、イモ、さつま芋、タバコ、酒。
   
12. 宮古島の酒: 
酒に関しては、薬のように癒(いや)しの効果のために使われているようで、宮古島滞在中に島民が酒に酔っている姿を見たことが無い。 酒は各家庭の妻たちが管理しているようだ。
酒を入れる容器は、この地域の陶工(とうこう)が地域の生活に合わせて作ったのであろうか? ここには酒の輸送専用に仕立てられた船もある。
大きな水瓶(みずがめ)や調理器具もそうだが、サイズや形状が様々であっても、それぞれに創意工夫がみられる。
   
サマラン号

サマラン号のミステリー Q & A:
 
このサマラン号の活動には実に多くのミステリーがあります。
 
Q1 軍艦なのに、サマラン号には植物や動物の研究者も乗っていたというのは、本当ですか。
A 本当です。 彼の名前はアーサー・アダムスで、動物学者で博物学者であり、医師でもあるアダムスはサマラン号には医師の助手として参加しました。 
アダムスは、調査のために停泊した各地でとても多くの標本を集めるとともに、学術的に正確でしかも美術的にもレベルの高い動物や植物のスケッチを大量に残しています。
アーサー・アダムスのスケッチと調査記録は、 "The Zoology of the Voyage of H.M.S Samarang" で見ることができます。
   
Q2 進化論で有名なチャールズ・ダーウィンとサマラン号は、どのような関係があるのでしょうか?
A 進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは、サマラン号の前の艦長 パジェットの友人で、ブラジルで何度か会っています。 ダーウィンは日記の中で、「パジェット艦長とは、多くの共通する話題がある。」 と書いています。 また、ダーウィンの乗る調査船 ビーグル号とサマラン号は一時期ブラジルのリオ・デ・ジャネイロを基地港としていたので、おもな交流は、リオ・デ・ジャネイロや近くのバイア(Bahia) 港に停泊中の船や市内で行われていたようです。
   
Q3 宮古島について、「サマラン号に乗っていた3人が出版した本に書いてある」 というのは本当ですか?
A 本当です。 その3人は、ベルチャー艦長と植物・動物の研究者 アーサー・アダムス、そして地理調査を担当していた海軍士官候補生の フランク・マリヤットです。
なお、この3冊の本で紹介されている宮古島についての記述がほとんど同じ内容であることから、航海中に3人のメモをまとめて艦長の記録とした、あるいは、それぞれ出版する時に先に出版されていたものを参考にした、と考えられます。 その3冊は以下です。

ベルチャー艦長: Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang (1848年出版)
アーサー・アダムス: The Zoology of the voyage of H.M.S. Samarang (1850年出版)
フランク・マリヤット: Borneo and the Indian Archipelago (1848年出版)
   
Q4 サマラン号は、アヘン戦争に参加していたのですか?
A はい。 記録では、1841年の2月26日、7月1日、そして12月26日の3回出撃しています。

このスケッチは、1841年のアヘン戦争におけるイギリスと中国の軍艦による戦いの様子です。
この絵には、“1841年1月7日、香港 アンソン湾の戦い” と記されています。
Photo courtesy: The Naval History of Great Britain

 
 
 
Q5 サマラン号は、奴隷の輸送もしていたというのは本当ですか?
A サマラン号はイギリスの軍艦なのに、1830年代にブラジルのサトウキビ農園で働く奴隷をアフリカから運んでいたようです。 チャールズ・ダーウィンも日記の中で、その事実を知ってかなり落ち込んでいると書いています。
また、詳しい事情は Adrian Desmond とJames Moore 共著の
Darwin's Sacred Cause: How a Hatred of Slavery Shaped Darwin's Views on Human Evolution で読むことができます。
   
Q6 サマラン号は長崎を訪問し調査を開始したのに、なぜ打ち払われなかったのでしょうか?
A 宮古島に来た次の年 (1845年) に長崎に寄港し上陸して調査を開始したので、あとで大問題となりました。
実は、ベルチャー艦長は長崎藩の警戒が強いので正面からでなく、近くの島に回って夕方上陸し朝まで調査を行いました。 ただ、藩がどこまでタイムリーに調査の動きを掴んでいたかは判っていません。
いずれにしても、サマラン号の調査部隊が長崎の近くの島に上陸し、地理的調査を行ったことに対しては、ヨーロッパ各国に大きなインパクトを与えたようです。

また、サマラン号の測量担当者の記録の中に、「長崎に関しては、上陸しなくとも沿岸付近を航行しながら、必要な測量は出来た。」 との記述もあるので、サマラン号は 18世紀より始まった三角測量や多角測量のための、最新測量機器と優れた技術者がいたのでしょう。

長崎藩が打ち払わなかった理由は、フリゲート艦サマランの上甲板にある 32ポンドカロネード砲 20門 と後甲板にある18ポンドカロネード砲 6門のあわせて26門の大砲を見て、とても打ち払うことの出来る相手ではないと考えたのかもしれません。
   
Q7 ベルチャー艦長が2度も沖縄に来ているというのは本当ですか?
A 本当です。 サマラン号のエドワード・ベルチャー艦長は、1845年に沖縄本島に寄港していますが、ベルチャー艦長はそれ以前にも沖縄に来ています。
1827年12月、イギリスの軍艦 HMS ブロッサム号の調査技師として沖縄に上陸しました。
   
Q8 サラマン号とベルチャー艦長の切手があるというのは、本当ですか?
A 本当です。 オーストラリア領、ココス諸島のキーリング島が1990年に発行したのが、右の記念切手です。
この切手は、現在も切手マニアの間で取引されています。

サマラン号
  Photo courtecy: Ship Stamps. co.uk
   
Q9 プロビデンス号のブロートン艦長の息子が、サマラン号の艦長をしていたというのは本当ですか?
A 本当です。 1797年、八重干瀬(やびじ)で座礁したプロビデンス号の艦長だった ウイリアム・ブロートン艦長の息子、ウイリアム・ブロートン (同じ名前のジュニア) も、父と同じようにイギリス海軍の海軍士官となり、1836年10月より1839年10月の3年間 サマラン号の艦長でした。

この話はロンドンの南西50km、ポーツマス市のイギリス海軍工廠(こうしょう)にある聖アン教会 礼拝堂の墓碑にも記されています。
サマラン号
Photo courtesy: Portsmouth City Council, Memorials & Monuments
「プロビデンス号物語」 は、こちらで読むことができます。
「ブロートン艦長」 につぃては、こちらでお読みください。
   
 
ベルチャー艦長について (家族や指導者向けの参考資料です)
  ベルチャー艦長は、イギリス海軍の中で最も物議を醸す人物の一人だったと言われています。
ベルチャー艦長は、高い科学的知識と技術的能力を持っていました。 独創的な発想力とともに、精力的に行動する多くの可能性を持つリーダーでした。
 

しかし彼の強い個性と活動力は、時には「無謀な勇気」と呼ばれたほど強引な命令を下し、上司と部下との関係をとても難しいものとすることが度々ありました。 そのため、ベルチャー艦長は1831年の航海後と1833年の航海後の2度にわたり、彼の指揮した軍艦の乗り組員の複数の告訴により軍法会議にかけられました。 

しかし、いずれの訴えも、証拠不十分との理由で不起訴となっています。
ただ、指揮現場での過激で強い命令口調はその後もあまり改善されること無く、当時イギリス海軍のなかに定着した酷評には、ベルチャー艦長自身も苦しんでいたと言われています。

事実、彼の優れた能力を発揮し世界各地で非常に多くの調査実績を残したにもかかわらず、性格的に荒廃した指揮者として不名誉な評価を残したまま、1877年ロンドンで亡くなっています。 77歳でした。
 
編集メモ(その4)
このぺージの Q3 にあるように、「サマラン号の航海物語」 では、当時航海に参加していた人々の話として記録されている 宮古島に関する資料の調査を続けていますので、新しい内容が見つかり次第、コンテンツを追加していきます。
                           (宮古島キッズネット 運営管理部)
 
References (参考資料):
1. Narrative of the Voyage of H.M.S. Samarang by Captain Sir Edward Belcher
2. The Zoology of the Voyage of H.M.S. Samarang by Arthur Adams
3. The Belcher Foundation, UK
4. Project Gutenberg - EU
5. Royal Museums Greenwich
6. Dictionary of Canadian Biography, University of Toronto
7. National Maritime Museum
8. Borneo and the Indian Archipelago by Frank S. Marryat
9. Charles Darwin's Zoology Notes and Specimen Lists from H.M.S. Beagle
10. Darwin's Sacred Cause: How a Hatred of Slavery Shaped Darwin's Views on Human Evolution
11. Cambridge University Press
12. Harvard University Library Open Collection Program
13. Naval Historical Society of Australia
14. Nautical Magazine and Naval Chronicle for 1850
15. Portsmouth City Council, Memorials & Monuments
16. Chart of the Coast of China and of the Sea Eastward From the River of Canton to the Southern Islands of Japan by James Burney 1811
17. NOAA Celebrating 200 Years / theodolites
 
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