昔から宮古の人々は船を上手く操って漁や交易のために遠く海外に出かけ、活躍したという話をよく聞きます。 しかし、残念ながら19世紀以前の航海の様子や、どのような船でそんなに遠くまで行けたのか、装備や航海術がどのようなものであったかについての、具体的な資料があまりありません。
「宮古島のヒーロー (5)」 では、宮古島の民謡 アヤグに歌われている内容から、14世紀初めの宮古島の人々の航海術を探ります。
 
 
蜜牙古島人 中国に漂着
  宮古島の人々による航海が歴史上の資料に初めて登場したのが1317年です。
宮古の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)したことで、中国元の時代の歴史書に「蜜牙古(みやこ)」と記録され、宮古の地名がはじめて歴史書にあらわれた年として知られています。

この時の話として、宮古島庶民史の著者で宮古島研究の第一人者 稲村賢敷は中国の記録を基に、「蜜牙古(みやこ)島人約60人がシンガポールまで交易に向かったが、暴風に巻き込まれ遭難し、12人が中国の福建省泉州の沿岸に漂着した。」 と書いています。

関連メモ 1:
漂着地に関してフリー百科事典『ウィキペディア』では、中国の元時代(13世紀)の歴史書『元史』 『温州府誌』 に 「婆羅公管下密牙古人(ブラコウカンカミヤコジン)」が温州に漂着したと記述されています。

この記述で驚くことは、宮古の人々は1300年代初めすでに 3,496km離れた新加坡(シンガポール)までの航路を知っており、また高い確率でこの時以前(稲村賢敷は、これを数十年以内と見ています。)に宮古島の誰かが実際にシンガポールに渡り、無事帰還して航路やシンガポールでの交易の可能性の大きさなどについて島の人々に語っていた可能性があります。

しかし中国の漂着記述の中には、船の構造や航海技術に関する記載は一切なく、当時の航海がどのようなものであったかについて知ることは出来ませんでした。
   
与那覇勢頭豊見親(よなはせどゆみ)のニイリ

 

ところが、昔から狩俣、下地、平良や多良間島で歌われていたニイリと言われる昔の人たちの話を歌ったあやぐ、ニイラアグのなかに14世紀はじめの宮古島の人々の航海術がどのようなものであったかについてうかがい知ることのできる歌詞がありました。

このニイリは、1390年琉球王朝中山に貢を始めた与那覇勢頭豊見親について歌った57節の長い歌ですが、ニイリの後半、42節から57節に当時宮古島から那覇までの航海がどのようなものであったかについて歌われています。
 
   
 
稲村賢敷のまとめた、航海に関する部分の詩と訳は以下のようになっています。
 
もと歌 歌の内容は、次のようなものです
   

42.まばずみぬぬんでや あらぱなぬすでいやゆ
43.宮古ぬとらぬばんゆ 島ぬわーらんゆ
44.白浜ん出うちゅり かぎ浜ん出うちゅり
45.白浜んなかん かぎ浜んなかん
46.んなぐ船ぱぎゅーとり しなぐ船ぱぎゅーちゅり
47.んなぐ船んなかん しなぐ船んなかん
48.にんた起きしうちゅい
49.とらぬ方ゆ見入りば あがるなうみーりば
50.ゆしやすみゃやきんたて うりがあとからや
51.んみ星ば上がらし うりがあとからや
52.むい星ば上がらし うりがあとからや
53.たたきゆみゃや上がらし うりがあとからや
54.うぷらくーら上がらし うりがあとからや
55.うぷてだゆ上らし
56.にいらてだうかぎん あらうてだみうぷきん
57.島たていばならいゆ ふんたていばならいゆ

42. 更生した豊見親が真っ先にどんなことをしたかというと
43. 宮古島の東の方の白川浜に出て
44. 白川浜のかぎ浜に出て
45. 白川浜の真ん中に
46. 砂船を造り
47. 砂船の中に
48. 悩みもだえ苦しみながら
49. 東の空をあおげば
50. ぺガサス星座を望み その後には
51. その後にすばる星群をあおぎ
52. その後にぎょ車座星群が上がり
53. たたきゆみや星が上がり
54. 明の明星が上がり
55. そのあとに太陽が上がるようになり
56. えんま大王のご慈悲で
57. 沖縄島をみつけることができた
この航路を後世の者どもよ、よくならって怠るな

   
ここまでが、稲村賢敷のまとめた、航海に関する部分の詩と訳です。
 

 
ニイリに歌われた星を、実際の天体上で確認し、方角を見つけましょう。
  1. 宮古の港を昼頃出て池間島の西を通り、船が風や潮流で八重干瀬に近づかないように位地を確認しながら北進する。
  2. 八重干瀬を越えたところで船をうしとら(北東)の方向に向けて進む。
  3. 日没後は船をペガサス星座(宮古の方言でユシヤスミヤ星)に向けて、さらに北東に進む。(午後7~8時)
  4. 次に、スバル座(宮古島の方言でンミ星)に向けて東に進む。(午後10~11時)
  5. 次に、北東から昇ってくるぎょ車座(宮古島の方言でムイ星)に向けて北東に進む。(午前0~1時)
  6. 次は、宮古島の方言でタタキユミヤ星に向けて北東に進む。(午前3時~4時)
  関連メモ 2:
宮古島キッズネットでは、出現する時間と方向から、タタキユミヤ星とは大犬座のなかで最も明るい一等星で、青く輝くシリウスのことではないかと考えます。 シリウスは、あんなに明るく輝いていますが地球から8.6光年も離れています。
  7. 夜明け前、空が白んできたら北東方向にある久場島(標高270m)を目指し、久場島の西側を航行し、座間味島を通過後すぐに航路を東に取る。(午前5時頃)
  関連メモ 3:
ニイリには久場島のことは出てきませんが、この後54節と55節に出てくる順番通り明の明星と太陽が同じ方角から昇ってくる真東に向けてのコースを取るためには、慶良間諸島最西端の久場島を目標として航行することで可能になります。 また、このコースは当時既に行われていた中国との交易航路でも使われていました。 久場島の岳(トゥイヤキヌキジ)は、約60km離れた海上からも確認できますので那覇港の方角と距離を知るための大切な航行の目標でした。
また、このコースは海洋学上でも十分に説得力のあるものです。 沖縄の先島地域北西を北東方向に進む黒潮は、反流の作り出す渦の影響を受けて東や南東に向けての潮の流れの変化が頻繁に起きます。 そのため、宮古島から那覇港を直線で結んだ航路上を航行すると、船が反流に捕らえられ、コースから東側にはじき出されてしまう可能性があります。
その場合、当時の船ではよほど運が良くない限り風を利用して北進し元のコースに戻るのが難しくなり、南西諸島の東側を流れる黒潮分流によっていっきに太平洋大循環コース上を漂流することになります。 そのため、あえて沖縄本島の西側に方向を定めて航行することで、仮にある程度黒潮反流の影響を受けた場合でも沖縄本島にたどり着く可能性が高くなります。
(右の写真は、宮古島の東に発生した黒潮分流をとらえたNASA の衛星観測データです。)
Photo Courresy: NASA's Goddard Space Flight Center
  8. 次は明の明星(島の方言でウプラクーラ)に向けて東に進む。(午前6時頃)
  9. 夜明けと共に太陽に向かって東に進み、那覇港を目指す。(午前7時頃)
  10 那覇港に到着 (昼頃)
   
  このニイリの歌詞にある星々の出現順番と方角を分析すると、船が宮古島を出港したのは8月下旬から9月中旬にかけての夏の後半と思われます。 また、この期間は風向も南及び南西方向から吹く日が20%程度期待できる時期であり、風待ちをして一気に那覇に向かうことが出来たはずです。
(星の出現する順番だけで考えると10月後半くらいまでは出現時間が変わってきますが、このニイリに歌われている通りの航行は可能です。 ただし、この時代の船はヨットのように向かい風や、横風を利用して進行方向に進むことができませんので、季節風が吹き始めるこの時期は例外的に南西方向からの追い風が吹いた時のみ那覇に着くことができます。)

下の地図は、ニイリに歌われている星の確認順序と進行方向を先島地域で観察できる星座でシュミレーションした大まかな時間軸と、それぞれの船の位地を Google マップに表示したものです。
   
 
 

宮古島の民謡 ニイリに歌われている内容から、宮古島の人々は14世紀初め、あるいは13世紀より星や風の方向、潮目を読みながら外洋の先にある、はるか遠くの目的地に向けて航海していた可能性があることが分かりました。
こうして地図上でコースを再現してみると、目的地までのコースのぶれが驚くほど少なく、ほぼ最短コースを正確にとらえていることです。
このことから分かるのは、当時の宮古島の船乗りはミクロネシアの船乗りのようにかなり正確なスター・コンパスを歌や物語の形で共有し、受け継いでいたのではないかということです。 さらに、ここまで星座の知識があったということは季節ごとに異なる星の位置を知っており、目的とする方向の星が雲で覆われ見つけられない時でも、真後ろや左右の星の位置関係から方角を割り出し、進行方向を決定することも出来たのではないでしょうか。

 
  関連メモ 4:
稲村賢敷は、この歌にある宮古島から那覇港までの航海時間を一昼夜(24時間)としています。 これは当時の船の構造と帆の形状から考えると、風向、天候などの気象条件が最高に良かった場合に可能な速さです。

ニイリには砂船とありますが、ひとつの推測はこの砂船は「前ぬ屋御嶽双紙」 にある宮古島の砂川で造られた前ぬ屋船(砂川船)ではないかということです。

「前ぬ屋御嶽双紙」 絵図によると、この船は日本伝来の技術によって造られたもので、船底を竜骨(宮古島の言葉では 「がーら木」)を中心として組み立てられ、船の艫(とも=船尾)には大きな舵(かじ)が付いていて、船の方向を一定するようになり、2本の大きな帆柱が取り付けられている、と説明しています。

右の図は沖縄で実際に使われていた馬艦船といわれる、荷物運搬用の船です。
東京国立博物館が所蔵するこの絵は、第二尚王時代後期の19世紀の作品とされていますが、与那覇勢頭豊見親が乗った 「前ぬ屋船」 も、これに近い形だったのかもしれません。

 
前ぬ屋船は、その後の宮古島のあやぐにも 「砂川船(砂川みうに)」 として歌われています。 砂川では、 原立船や中立船のように、船大工の集落の名前が付けられた船がたくさん作られました。

関連メモ 5:
琉球王朝中山に貢を始めたいとの思いから那覇入りした与那覇勢頭豊見親ですが、思いがけないことがおきました。
それは、宮古島の言葉が那覇の人たちに全く通じなかったのです。 そのため、宮古島からどのような目的で来て、琉球国王 察度(さっと)に会いたかったのかを王朝に伝えることができませんでした。

そこで、与那覇勢頭豊見親は共に那覇に行った者たちの中から聡明な者20名を選び、那覇の言葉を学ばせました。 そして3年後、ついに琉球国王察度に会い那覇に来た目的について話すことが出来ました。
話しを聞いた察度王はたいそう喜び、与那覇勢頭豊見親を宮古島の主長に任命しました。
この時より、宮古島は琉球王朝に従い属する関係、つまり服属することになりました。
 

参考資料:
1. 宮古島庶民史 稲村賢敷 著(1972年出版)
2. 琉球聖典 おもしろさうし選釈 伊波普猷 著(1924年出版)
3. 旧記 桑江克英 著 (1939年出版)
4. 宮古島旧史 西村捨三 著 (1884年出版)
5. 沖縄文化論業(4) 文学・芸能論 外間守 著 (1991年出版)
6. 清代琉球紀録續輯 台湾文献叢刊第299種 (1971年)
7. Cincpac Command History Volume 1 (1967)
8. Notes on Loochoo, E. Satow (1872)
9.
Ryukyu in the Ming Reign Annals 1380s-1580s, Geoff Wade Asia Research Institute
 National University of Singapore (July 2007)


 
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