昔、新里村に住んでいたあせら屋の御船の親という人が船頭として琉球へ行った帰り暴風雨に襲われ、南のアフラという島に漂着しました。
このアフラ島に住む種族は、他の国の者が漂着すると捕えて殺したり また膝の皿を割って歩けないようにしたり、盲目にして逃げられないようにしました。
また体力の強いものには呪いをかけて、牛に変えて畑を耕かせたりするという、それはそれは恐ろしい島でした。
頭の御船の親は色白の美男子でしたが、捕まえられて間もなく殺されました。
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同じ船に乗っていた新里村水主野崎の
真佐利
はとても賢い若者でした。 彼は助かる方法を考え、
密
かにアフラ島の女性と仲良くなり、結婚することにしました。 女性も 「何とかして真佐利だけは助けて帰したい」 と協力してくれることになりました。
彼女は真佐利に、「この島の者たちがお前たちに肉を食わせて牛にしようと考えている。 肉汁を食べるように言われたら、汁に浮いた肉を食べてはいけません。 浮いた肉を食うと、呪いで牛になってしまいます。」 と教えてくれたので、真佐利は他の生き残っている者にこのことをそっと伝えました。
こうして真佐利たちは、牛になることもなく生き残っていましたが、連れの者たちは殺されたのか、だんだん数が少なくなっていきます。
「間もなく自分も殺されることになるだろう、かといって無事にこの島から脱出する方法も見つからない」、真佐利は結婚を決めた島の女性に心の内を伝えました。 女性も真佐利に愛情を感じていたので、彼がいつかは殺される時が来ることを心配し、彼を救いだすことを約束しました。
それから女性は家族にも内緒で船や食料、飲み水を用意し、準備が整うと出発の日を決めて真佐利に知らせました。 彼もまた生き残っている 2〜3名に知らせて、密かにその日を待つことにしました。
いよいよ島から脱出する日の夜、集落から少し離れた藪の中から暗闇にまぎれて女性が旅に必要な荷物を積んだ船を引いて浜に出てきました。 真佐利と連れの男たちは彼女の愛情に涙を流して感謝しながら別れを告げました。
この時、女性は真佐利の耳元に 「私は、あなたの子供を
妊娠しています。 無事に生まれたら、私は南風の吹く頃この浜から竹束を流します。竹束があなたに届いたら子供が無事生まれたものと思って下さい。またあなたの子孫がこの島で栄えている間は毎年竹束を海に流すので、安心して下さい」 と伝えました。
真佐利は女性の深い愛情に感動し、とてもつらい思いで別れを告げると島を出発しました。 島の誰にも気付かれないうちに、できるだけ遠くに行かなくてはなりません。 彼らは必至で船をこいで北へ北へと進みました。 アフラ島の船をこぐ櫂は「かこう竿」といって、竿を水に突っ込むときは水鳥の水かきのようにその先が開いて船を前に押し出し、引き出すときは先がしぼむ仕掛けになっていました。
40キロばかり進んだ頃、空がほのぼのと明けてきました。 その時、櫓の拍子を揃えて追ってくる船が後方に見えました。 間違いなくアフラ島の船です。
この船は帆を立て追い風に乗り 「かこう竿」を使ってこいでいるので、とても船足が早くすぐに追いつかれてしまいそうです。
危険がだんだん迫ってきました。 その時、前方に緑におおわれた離れ小島が見えてきました。 真佐利たちは全力で船をこぎ寄せて浜に上陸しました。
真佐利は、仲間と作戦を立てました。 まず、彼らが砂山を登って島の内部に逃げたように見せかけるために、高さ約 20m くらいの砂山を砂の切れるところまで前向きで上り、砂の切れたところからは駆け上がった足跡を後ろ向きで浜までもどりました。 |
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こうして、足跡をすべて砂山を上ったように見せかけ、真佐利たちは海岸近くの藻草の中に身を隠しました。
やがてアフラ島の者7~8人が真佐利たちを追って船を小島の岸に着け、 浜に上ると真佐利たちを探し始めます。 間もなく砂山を登る足跡を見つけた一人が大声で仲間を呼び集めると、全員で急いで砂山をかけ登り島の内部へと走っていきました。
これを見た真佐利たちはそっと藻草の間から姿を現し、大急ぎでアフラ島の者たちが乗ってきた船に乗り込み帆を上げました。 また、自分たちの乗ってきた船もつないで沖へと力いっぱいこぎだしました。
アフラ島の者たちが山の上にたどり着き浜の方を振り返ると、真佐利たちが船をこぎ出すのが見えました。 あわてふためいて急いで浜へかけ下りましたが、船は2艘とも真佐利たちに持ち去られて他に船はありません。
真佐利たちの船は北東を目指して矢のように洋上を走り、翌日の午後2時頃には無事宮古島の野崎親泊に着くことができました。
絶海の小島に取り残されてしまったアフラ島の者たちが、その後どうなったのかは誰も分からないそうです。
ご家族の皆さま:
上野村新里にある
御船の親の御嶽
の史跡案内に、「アフラ島とは、台湾の東の洋上に浮かぶ小さな「緑島(火焼島)」を指すとのことだが、緑島には同様の伝承はないという。」 とあります。
この点に関し、宮古島キッズネットでは 「伝承のモチーフには、一定の実在したファクターが含まれることが多い」 との考えのもと、現存する地理的条件からアフラ島とはどのあたりの島だったのかを考えました。 この話の中には地理的条件の推測材料が3つあります。
1. |
捕まっていた島を船で脱出して、北へ北へと航海した。 |
2. |
40キロ程北に進んだ所で後を追ってくる船があるのを発見。 追いつかれまいと全力で船を漕いでいると、前方に緑豊かな島が見えてきた。 |
3. |
この島で追っ手を振り払い、船で脱出。次の日の午後2時頃には無事野崎親泊に着くことが出来た。 |
この条件を満たす島が二つあります。
まずは、最初に漂着した島が台湾南部の東側にある「蘭嶼 (Orchid Island)」 をアフラ島と設定して物語ができたのではないかということ。 そして、逃げる途中で偶然発見し、いったん上陸して追っ手を振り切り脱出に成功した島が蘭嶼の北60キロにある「緑島郷(Green Island または火焼島)」 と考えると、ストーリーにマッチした2つの島があり、方角と島の間の距離もほぼ物語に沿った位置関係にあります。
また、「緑島郷(Green Island または火焼島)」 から宮古島までは450キロ離れていますが、風の条件(西風または南西の風)さえ良ければ、まる一日で到達可能です。
このことから、私たちの推測ではアフラ島物語のモチーフとなった島は台湾南部の東側にある 「蘭嶼 (Orchid Island)」 ではないかと考えます。
ところで、宮古島庶民史でこの物語を紹介している稲村賢敷が、南島伝説のその後について、1972年発行版で以下のように解説しています。
南島伝説は 「第二宮古島旧記」 の記事を主として、ひとつ、ふたつ民間の伝説を取り入れて書いたが、例の「かこう竿」というのは、最近まで野崎まさりやの子孫の家に伝わっていたと話している。 また新里村の伝説によれば、いまでも毎年五、六月頃、南の風が吹くころになると竹の束が新里の海岸に流れ着くことがあるということで、野崎まさりやの子孫はいまなお南島で栄えつつあると信じられている。
野崎まさりやが帰る時に、船頭あせら屋の御船の生前の頼みで、骨だけでも持ち帰ってくれという話があったというので真佐利は御船の親の頭蓋骨を持ち帰った。 この頭蓋骨は新里の村人達によって御船の親みやーかを造り、ここに葬られた。
あせら屋は新里村の言葉では 「あつさ屋」 と発音され、父の家の意味を持っている。 この屋号から考えると、新里村の由緒ある家柄で根の家の一つにあたるようである。 村人たちが大きなみやーか墓地を作ってその骨を葬ったのも、こうした関係であろうと思われる。 現在はその前に樹木を植え、御嶽に作り直して「御船の親御嶽」となっている。 |
参考資料:
宮古島旧史 西村捨三 著 1884年
宮古島庶民史 稲村賢敷 著 (1972年)
旧記 桑江克英 著 (1920年) |